他人を許容しなければならない(部分もあると)

ブログのみをご覧の皆様には、新年のご挨拶が遅れてしまいました。

本年もよろしくお願いいたします。

他人の発言などを許容しなければ、自分の発言の意味がなくなる・・・

そう感じることが最近国際的にいくつかあります。

紅白をリアルタイムで見ていませんでしたが、サザンオールスターズの桑田佳祐氏がちょび髭をつけて安倍政権を批判したとあります。
なんか所属事務所のアミューズ前でも抗議デモがあったとか聞きますが、他人の意見を批判するのは結構ですが、他人の意見をやめろと言う前に、自分は民主党政権時にどういったことをしていましたか?と問いたいのです。

安倍政権に反対する人がいるのは当たり前だと思うし、100%政権に賛同できるはずがないってのは、これは国民全員だと究極的に思います。

私にとって民主党政権で理解できたのは極めて0%に近く、安倍政権においては60%くらいかと思っているわけだが、それぞれの許容範囲が違うことで、その批判と言うのもトーンが変わってくるのです。

サザンオールスターズの表現にしても、過去も音楽寅さんでいろいろやっていたわけで、そういうものを見て「ほほう、桑田佳祐って人はこういう人なのか」と感じることはありました。

ただ感じるのはどちらかと言えばジョン・レノンのような「無責任にピース」と言っているようなもので、表現者として言いたいこと伝えたいことをやっているだけのことだと考えます。

それを許す許さないということではなく、やめろではなくて何を表現しているんだろうと考えればいいじゃないでしょうか。

別にサザンオールスターズを嫌いになってもいいじゃないですか。
表現者としてそれを覚悟でやっているんだろうし、国民をからかっているのかもしれないのですから。
(愉快犯としてほくそ笑んでいるかもしれません)

そりゃ絶対的に皇室に対して不敬というのであれば、日本国民としての「国の成り立ちの理解度はどうなんだ?」と責めることはできるでしょうが、時の政権に批判したっていいわけじゃないですか?
自分たちだって民主党政権を徹底的に批判したわけですから。
そしてその表現に関して批判するのもいいじゃないと思うわけです。

そこで思うのは、フランスでの襲撃事件だったりするわけです。

あれは許されるのか?ということです。

つまりは、宗教と言うものについて風刺が許されるのかということなのですが、それは皇室における不敬と同様、許されないものもあると考えます。

信じる者、大切な者を傷つけられて、それを許容できないというのは理解できなくはありません。

ただしそれを物理的な攻撃にすることは卑怯極まりないことです。

だからこそテロリズムは非難されるわけですし(テロリズムとそもそもの国家独立における抵抗は違いますが)、他者であったり他宗教を信じるものだから殺害しても良いってことにはなりません。

言論には言論で返すべきですし、暴力という解決方法は許されません。

表現は悪いかもしれませんが、オウム真理教の麻原信仰によるテロリズムはなんだったのかと考えてみれば、信じる者によって何かが行われる危険性はあるわけです。