3月11日が近づいてきました(4)

3月11日が近づいてきました(3)からの続きです。

朝は10時頃まで寝ていました。

昨夜使ったガソリンは普段たった30分の距離で1/4程度でしたので、あの渋滞はどれほど無駄な消費だったのかと思いますが、妻の女性が多い職場の自宅への期間を考えれば仕方がなかったと思っています。

そして、土曜日でしたがサッカースクールも地震の影響でお休みすることとし、布団の上でうだうだやっていたところ、携帯電話がなりました。

電話の主は私の弟です。

「兄貴・・・今日暇?(笑)」

「いやあ、暇っちゃ暇だけれどどうした?」

と、理由を聞いてみると仕事場の大田区から自宅のある八千代台まで帰ろうと思ったのだが電車が止まってしまったこと、止まった場所が我が家の最寄駅である青砥であること、そして電車の運行復旧の見込みがないことで要は家まで送ってほしいとのことだった。

まあ時間がありあまる状況でしたし、子供たちには母親がいるしということで、男二人でドライブがてら葛飾から八千代市まで走ったのです。

考えてみれば弟と二人で二時間以上サシで話すこともなかったため新鮮な時間を味わいました。

昨日のすさまじい混雑よりはましになったとはいえ、やはり市川橋は混んでいました。

昨夜はこんなものではなかったというと、彼は仕事場で泊まったことなどを話してくれました。

空港では動けなくなった人が大勢いて一晩を過ごしたこと、仕事場で結局安全のために泊まったことなど、いろいろと聞くことができました。

ワンセグをつけながら車を走らせていましたが、あの津波には二人とも声はでませんでした。

今自分が生きていること、生かせてもらっていること、そういうものが半世紀近く生きているとわかってくるのですが、震災で若い命が多くなくなってしまったことなどなど、そういう話もしながら彼の自宅に向かっていました。

そういえば、彼の子供は二人とも都内の学校に通っていて、一人は我が家の近くだったのでもし動くことができなければ我が家に迎えようと思っていたのですが、早い時間に既に自宅にいたことがわかりことなきを得ました。

もう一人は高校生の男子でしたので、工藤家の男子ならなんとでも生き残れと思っていたので放置でしたが(笑)

そんなこんなで彼の家についたところ、ほっとした顔の彼の奥さんの顔を見ることができ、うれしかったことを覚えています。

こちらもいつもは60分かからないところを二時間半ほどかかりましたので、まだ混雑している状況でしたが初日よりははるかにましという感じでしたでしょうか。

帰りはもう少し時間がかからなかったことを覚えています。

それからの一週間はたいへんでした。

福島第一原子力発電所の事故が起こり、まず飲み水確保と思い実家にペットボトルをケースで送ってもらったりしたのですが、買った翌日に売り切れてしまっているなんてこともありましたし、近くのコンビニエンスストアやスーパーマーケットではミネラルウオーターがすべて売り切れていました。

拙宅には事故の二日後には届いていて、近所の赤ちゃんのいる家庭にも数本程度は分けられる状況でしたので、ミルク用にと軟水であるミネラルウオーターを持って行ったこともありました。

ガソリンもスタンドには大行列ができていましたが、私は二日目までに半分と少しガソリンがタンクに残っていた状態で、気持ちに余裕がありましたし、もし何か福島でそれ以上の事故があった場合にまずは西に避難するだけのガソリンは残しておこうと思っていたので心は余裕がありました。

それと父が原子力の研究者であったことも幸いしました。

私も理系でしたがそれ以上に専門家である父の言葉は孫を心配する祖父であり、正確な情報と知識で千葉や東京の危険度を測っていたようです。

余談ですが後に私が「泊原発ってのは立地としてよくできたところにあるもんだね」と話をしたところ、札幌から遠すぎずも札幌に影響を与えにくい場所ということで選んだ土地だと知り納得をしました。

福島第一の事故でそれまでの理系の知識をフル稼働した上に、さらに学んで知恵をつけ、父からのアドバイスを受けたおかげで、冷静に東京の事故後を考え、発言することができたのはこういうことがあったからです。

その後、子供を守る活動だけに専念するため「東京連合こども守る会」に仲間で参加をしたり「守る会@葛飾(葛飾区の子供達を放射能の被害から守る会)」などというので活動をし、ニュースで紹介されたこともありました。

今でもそのころのことは鮮明に覚えていますが、あれほど真剣に動いたのはPTA以来だったでしょうか。

震災から明日で5年が経とうとしています。

被害の大きかったところではまだ復興とは言えない状況ですが、各個人がそれぞれ考え、動き、努力することで必ず解決できることだと思っています。

支援だけが必要ではなく、人の心の問題で合ったりもしますが、自分を信じて復興をめざしていきましょう。