この記事の中の人は、息子が東京大学に進学したことが自慢でならなかったらしい。
大学なんてのはどこを出たって、最終的に社会でどうやって活躍できるのか、できなければ相応の生活ができるのか、それとも落ちていくのかが最終的なものだと思っているので、大学卒業なんて肩書は大きく言えば関係がない。
しかしながら、より優秀な学校を卒業することでのチャンスの広がりは否定するものではないが、いわゆるFラン大学を卒業した場合「学歴フィルターがあ」なんてことになりかねないわけで、そこでいじけたら負けなんだけれど、中途半端な人ほどそれをがたがた言い出す。
私なんかは何度も書いていますが、なりたい職業に就くことができないことがわかった時に、スピンアウトしているわけだが、どうやって社会でまともに生きていくかと考えたところ、ひたすら結果と金を求めることになったのは間違いがないと思う。
さて、進学率57%なんて数字は、どうやったっておかしいと感じるわけで、優秀な学生が増えているならわかるが、人口が減っている今は競争が減り続けている中でのことであるため、優秀ではない人間が底上げされて大学卒の資格を得ているだけだと感じる。
まあだからといって、東京大学を出たからと言って優秀じゃない人はそれなりにいるわけですが、ひたすら優秀な人は優秀なわけで、そこにはそれなりの理由があるなあとは思う。
そうやって考えると、東京大学でそうなのだから、当たり前にFラン大学なんてものは優秀な人がどれだけいるのかと考えると、ちょいと恐ろしい割合になるんじゃないかと。
しかし、ごくわずかではあるがそうした大学であろうと、中卒であろうと優秀な人は根っから優秀なわけで、起業をして成功をするような人もいるが、それはそれは本当に一握りなわけで、新卒採用の際に企業としては残念ながら学歴フィルターを通すのが当然となる。
と、そこに意味はあるのかと感じるわけで、我々の時代のように大学進学率33%と1/3だった時代の方がまだ優秀な大卒がそれなりにいたと思う。
当然ながら名も知らぬ大学卒業生で会社の同期の中に、とっても優秀なんて思える人は皆無だった。
むしろ別の寮にいた高卒の理系の奴の方がはるかに賢かったし、目的を持って生きていたので、その後は起業をしてある程度の成功をしたと人から伝え聞いた。
つまりは最終的に人の力なわけであるが、当時から「名も知らぬ大学の意味」というのを疑問に思っていたのだが、平成に入ってからの名も知らぬ学校が増えたことによる大学生の劣化は当時よりもひどいと感じるわけで、前々から大学は減らした方がいいと言っている。
さらに言えば、教える側の劣化もひどいのは〇〇大学教授だのなんだのというのが、テレビのコメンテーターとして出てきても、底が浅い考えであったり、サヨク的な押し付けであったりと、学生の劣化が激しくなっているのも頷ける教育者の数が多くなることの弊害というのも感じる。
大学数を減らし、教える人たちも厳選することにより、研究することの質が上がるわけなのだから、減らした方がいいと思うのだがいかがだろうか。