堀江貴文氏が中学受験に対して、また大学進学に対して持論を述べているようだが、極論でもあるわけですべての人に当てはまるわけではないため、参考にできるのは一握りなのだと感じる。
私は普通の人であれば東京都に住んでいるのならば中学受験をした方がいいと思うし、できるだけその後の可能性を広げたほうがいいと考えている。
それは「普通の人」であるからだ。
日本で起業家の割合を示す統計はないとのことなのだが、2019年での日本の開業率は4.2%であり、米英仏と比較して半分以下と低い水準であること、起業の意識調査において、関心がある人の割合は14.9%(2021年)とのことで、ほとんどの人が起業とは関係がないことがわかる。
起業家で学歴なんか関係ないなんて人は結構いるが、最近は大学時代に起業する賢い大学の人も結構多い。
堀江氏だって学生時代に起業したわけだし、しかも氏は東京大学である。
あれだけとびぬけた人であれば、そりゃなんでも言えるわけだが、ほとんどの人は普通の人に過ぎず、一生サラリーマンなんて人の方がはるかに多いということになる。
◇
ということで、学業が大切になってくると感じるのは、普通の人が普通じゃなくなるチャンスをもらえるのが学業の成績や結果によるものなのだということ。
拙宅なんざ子供のころは貧乏で、その後普通よりチョイ下、父はサラリーマン後半でやっと人よりいい生活ができた、そんな人であった(私たち兄弟はすでに家を出ていた)。
そんな家庭環境でも、両親は学業の大切さと勉強の仕方、それから所作と言語能力を徹底的に鍛えてくれた。
おかげで弟はいまや一流企業の遊ばせてくれない(苦笑)部長となり、私はフリーランス~企業~フリーランスとなんとか人並み以上に生きていられる状態となった。
その要因はと考えると「学業の結果」というのが大きい。
最近は教育施策の失敗によって、学校外のテクニック的な学びを得ることで、より高い学力で学ぶことのできる学校を選択するようになってしまったが、私たち兄弟のころはぎりぎり詰め込み教育と呼ばれた年代である。
だが、わが父が圧倒的に違っていたのは「勉強とは考えることである」というものであった。
まあ、弟は努力家なので例えば数学の公式を覚えた後に「なるほど」と解いていくので進行が速いのだが、私は公式を解くことからスタートするのでどちらかといえば進行は遅かったが、しかし一度解いてしまえば理解度が高いため今でも忘れることはない。
たまに子供たちの中学や高校の数学や化学なんかで質問をもらっても、苦も無く答えることができたのは、父の考える能力を与えてくれた賜物だと思っている。
母は勉強していないとうるさかったが・・・(笑)
つまりは私たち兄弟は学業の結果に救われた例であり、当時の詰め込みとは違う考え方で生き延びてきたということになる。
◇
といいながらも、弟は北海道教育大学付属札幌中学校に進学する、普通の人だったわけだがだからこそ学業はチャンスと今でも私たちは考えている。
学業の結果は誰にでも平等になるのは、数字が表してくれるからだ。
100点は100点であり、その理解力を示してくれることになる。
しかしながら、テクニックで100点を取ることも可能になるわけで、テクニックだけで生き残ってきた人は、実はその後社会で落ちこぼれる人も出てきたりする。
私がコンサルテーションを行った企業はありがたいことに一流企業が多いが、ある企業では一つの部門に100人程度の優秀と思われる人材(東京大学が95%以上、その他京都大学、慶應大学)を集めていたが、なんと20%近くが落ちこぼれてしまうのを見たことがある。
私より10歳程度若い人たちだったから、学習要領が変わっていた人たちであったが、やはり優秀な人は「考える能力が高い」ということしかなかった。
その中の5%程度はスーパーな人達であったが、彼らのその後を追いかけると、現在ではその企業の主要部門であったり、取締役候補や出向して取締役になっているような感じであり、今後は下手をすると会社を背負う人も出てくるかもしれないというもの。
その時に部門長であった取締役はその後、子会社でも大きなところの会長になったが、私が知っている範囲でも圧倒的に考える能力と、判断する能力、そして人に任せる能力が高い人で、現在まで氏を超えるような人はあまり見たことがない。
その方は慶應大学~MITという変わり種で、とにかくすごい人だったし、私を面白がってくれた人でもあった。
・・・と横にそれたが、その方の慶應は幼稚舎からの優秀な遺伝子を持って、MITへと飛んでしまったすごい人なのだが、それも学業のなせる業なのだと感じる。
そして、その部門に集められた100人は学業での勝利者なのであるから、企業としては可能性を感じるからこそ呼び寄せたのだろう。
そこに普通の人の学業の大切さがあるのだと感じる。
学業こそチャンスが平等なのであり、うちのような叩き上げの貧乏人であっても、チャンスをもらうことができるのである。