「日々思ふこと」カテゴリーアーカイブ

立山に行って参りました

この週末で、80歳になる母と、娘たちと立山に行って参りました。

本格的な登山ではなく、扇沢から室堂まで電気バス~ケーブルカー~ロープウェイ~トロリーバスと乗り継いだだけなのですが、徒歩で15000歩超でしたので10kmほどでした。

さすがに母は膝が痛いと言っていましたが、たぶんこれが人生最後の1日10km歩行になるだろうと言っていました。

昨年、父が亡くなったときに「お父さんと立山行こうって前に言っていたんだけれど、行ったことないのよ」と話していたのがきっかけになって今回の旅行となりました。

両親が立山に行こうと言っていたのは、たぶん父が大阪事務所長であったときで、3年程度の任期だと思っていたら一年で本庁に呼び戻され、観光室長になったため行かなかったのだろうと想像しています。

結構、母が札幌から大阪に行っていたよなあと思い出します。

午前零時に家を出て子供たちをピックアップし、8時半扇沢発の電気バスに乗るという計画ですから、母にはそこそこきつかったのではないかと思いますが、その夜の草津温泉を満喫し、先ほど拙宅の最寄り駅より羽田空港に向かいました。

「もうこんなに歩くことはないからね」と笑っていましたが、本人の年齢や気力を考えると本当にそうなんだろうなと少し寂しくもありますが、元気でいてくれるだけでありがたいと思います。

そして、その旅程につきあってくれた子供たちにも感謝です。

祖母想いで絶えず寄り添ってくれた彼らには感謝してもしきれません。

よく優しく育ってくれたものだと感じます。

父が亡くなったことで、冬の雪が多いときの雪かきは私が行くようにしています。

そして、衝撃の事実なのですが、弟は雪が嫌いで北海道には住めないと思っていることが判明し、雪かきは子供の頃から嫌いだったと知ってしまいました。

ということで、冬場の雪かきには私がこれからも行くことにします(笑)

後何回母と会えるのか、神のみぞ知るわけですが、なるべく時間があるときには顔を出しておきたいとそう思います。

3ヶ月一回でもいいかなあ?

ご無沙汰しております

久しくブログに向かっておりませんでした。

昨年は春にお客様が変わり、夏に父が亡くなり、冬には引っ越しと、本当にバタバタした一年でした。

なんだかんだと仕事もプライベートも充実した日々を送っておりますが、忙しくさせていただいているのもこれまた天命かとも思われます。

立ち上げて三年目を迎えるU-12のサッカーチームも松戸市に登録する予定ですし、自分はO-60にカテゴリを変え、墨東BOF(CWL-1)というチームに参加させていただき、全国を目指していこうと思っています。

一点、忙しくてインストラクター更新を忘れていたのは…

いろいろありますが、今年もがんばります。

6年前の自分の投稿へのアンサー(生き方について)

6年前、「ケチらないこと、努力を怠らないこと、人をうらやましく思わないこと」と結果的には自分に言い聞かせているエントリーに対して、過去の自分へ現段階での回答をしたいと思います。

まずケチらないこと。

6年前と比較して、超高額とは言えない額ですが、少なくとも安定をして禄を得られている状況で、必要な時に必要な投資(自分だけではなく他に対しても)ができるようになっています。

ただし、現在のお客様との契約が年度末のため、営業中ですがなんとかして今後も安定的に禄を得られるように努力をしています。

安物・・・付加価値のないただ安いだけのものは買わないようにしています。

付加価値がある、本物をなるべく購入するようにしていたり、食品材料についても良いものを適正な価格で買う努力をしています。

そしてできるだけ国産を選ぶようにしているのは、安全(神話もたまに本当か?と思ってしまいますが)もそうですが、それよりも流通も生産も同じ日本の中で行われるものを選ぶということだと理解しています。

つまりはできるだけ日本の中で金を回すということですし、良いものを適正な価格で購入することにより、生産者に正当な対価が得られるということを考えているのです。

次に努力を怠らないこと。

当たり前なので次(笑)

・・・って、当たり前です。

死ぬまで努力をし続けます。

自分だけではなく、周りが良くなるために、今より次の瞬間がもっと良くなっているように、そういう努力をし続けていきます。

人をうらやましく思わないこと。

6年前以上に思わなくなりました。

もっと言えば、人は人というのがきれいごとじゃなくて、普通になってしまいました。

我も人なり、彼も人なりではありますが、個々違うのが当たり前ですので、他者の成功を羨んでも全く意味のないことです。

他者の成功から学ぶことは山ほどあっても、羨んでいるだけではなにも進むことはないわけです。

あと2年半で還暦を迎える今、生と死について考え、また向かい合っています。

人は生を得た後、確実に死を迎えるわけです。

自分の人生に責任を持ち、また他者や国家、世界にどれほどの貢献ができるのか、生きているだけでも貢献をしているはずなのですが、それ以上に何かできることはないのか、そういうことを考えできることを実践していかなければならないわけです。

言葉だけではなく動くことこそ重要で、ネットの中で愚痴ばかりをいう人間になるつもりもありません。

そのため今でも実名でこうした投稿をしているのは、自分の言葉に対して責任を取らなくてはならないと思っているからなのですが、それだけに過去の幼い投稿などを見る度に、嫌になることも実はあったりします。

さて、6年前へのアンサーですが、このような状況になっています。

少なくとも今が順調と言えるのは、その6年前に伴侶となってくれた妻がいるからだと思っています。

彼女が私の人生を明るくしてくれたのだと。

感謝をしながらこれからも努力しながら生きてまいります。

米国の仲間との会話

まあ、この年になると仲間や友人も多くなるため、当然ながら米国に居住している人たちがいる。

そんな中、仕事やらプライベートやらで仲間と話をするわけだが、日本との違いに気づかされる・・・というか、どうなっているの?と聞くため、実態がある程度見えてくる。

その中で乗三分かかったのは、ニュージャージーに住んでいる後輩だが、驚くほど固定資産税が高い!ということを聞いた。

しかし彼は納得をしていて、なぜかというとその税金の使い道の中に、学校教育に対するものが多く含まれており、例えばCOVID-19で学校が閉鎖になるとなってからわずか三日で全員に無料でPCが配られ、オンライン授業に切り替わるなんてことがあり、税金は高くともそれは理解ができるとはっきり言っていた。

健康保険に対しては所属している会社の保険を使うことができるため、家族は問題ないのであるが、そこから離れた途端保証は全部自分で用意する(民間保険等)ため、Fireされないことを願っていると言った。

まあ、彼は米国に行って10年目となるわけで、もうすぐ永住権を取ることができるくらい会社から重用されているわけで、そういう人は問題がないのであるが、その企業保険などから漏れた人たちは悲惨であるとのこと。

さらには、彼は4年前に住居を買ったのであるが、住居は基本的に価値が上がり続けるという、日本では極めて考えられないことが起こっており、購入後にリフォームで400万円ほどかけたというが、今家を売ったとしたなら、余裕で買ったときの値段から1200-1300万円程度の利益がでるとのことで、リフォームなどの投資はしておいた方が後々よいとのこと。

また、昨年金利見直しをして、ここ70年だかで最低の金利となったため、借りなおしをしたとのことだが、1%金利が下がったため本当に楽になったと言っている。

ただ、固定資産税が年間150万円ほどで、ローンに乗せて支払うため、支払金額はそれなりに高くなっているとのこと。

というか、いま米国の東西海岸地域では地価だけではなく派手な物価上昇があるため、日本で1000万円くらいの給与をもらっているレベルでは、かなり生活は厳しいとのこと。

だがしかし、それは本当に一部に起こっていることであり、米国中部の実態を知っている友人に言わせると「そんなん海岸部の話であって、内陸部は土着せざるを得ない人が多く、低い給与と低い物価で生きている」とのことである。

つまり、日本で情報をつまみぐいする人の多くは、東西海岸地域の「良い部分だけ」を見て、物価の急上昇だったり、高額な家賃を払わねば住むことさえできない事実には目をつぶり、日本は貧しくなったと言っているのがなんとなくわかる。

だが、では日本はどうなのかといえば、政治家はチャレンジしないし、高負担(税金など)を言ったものなら政権転覆さえ起きかねない幼さである。

先に書いたがニュージャージーでは固定資産税は高くとも、きちんと地域に還元されているため住民の多くが満足すれば、なんの問題もないということだ。

だが、高齢者の医療費負担で、それなりの収入がある人に対しても制限をかけられないだとか、衣食は無税にしても、贅沢な物(昔で言う付加価値税)には課税をするなど工夫をしようとしても、日本の場合は民衆が理解できないため思い切った政策を取ることができないのが極めて残念。

それはなぜかといえば、政治を公の場で話すことをためらったり、稼ぐことを卑しいと表現したり、古い固定観念の中でしか話をしていなかったりなど、本来すべきことをしないからそうなるのだと思ってしまう。

政治こそ最も身近にあるものだし、稼いで納税をすることは尊いことであるし、枠組みを壊してでも仕組みを変えていくことは重要なはずである。

そういうことができないのが残念ながら日本なのであるが、ノイジーマイノリティが跋扈するこの世の中では確かに難しい部分ではある。

そういえばニュージャージーでは3/7から学校ではマスクの義務化がなくなるとのこと。

賛否あると思うが、これはオミクロン株においては危険性は少ないと判断したということ。

それは一つの考え方であると思う。

日本においては慎重すぎる判断であるが、私はもっと緩和していくべきだと思うが、それは別段米国の真似をする必要もないと考える。

マスクは公衆衛生上してもいいと思うし、先日の呉市議のように陰謀論をかざして航空会社に迷惑をかけるようなそんな観念しかない者は数が少ない(結局ノイジーマイノリティ)ため、日本人特有の「空気を読む」をもう少し強くする程度で良いのかもしれないと感じる。

ちなみに私は人と出会うようなことが少ない場所ではマスクははずして歩いているが、人が多いところやお店に入る時にはマスクをすることにしている。

それは私がCOVID-19に感染している場合の迷惑を考えるからであって、同町圧力とかそういうくだらないものではない。

前にも書いたが、マスクは感染をさせる側こそ注意すべきものであって、飛沫を他人に浴びせないことが重要だからである。

「私」ではなく「あなた」に迷惑をかけないためにもしていることであって、呉市議のような人は「私」だけしか主語がないからそうなってしまうのだと理解をしている。

そうそう、西海岸にいる友人はランチが3000円くらいするよおと嘆いていた。

彼は収入が日本円にして2500万円ほどだが、家賃や生活費がまたとてつもなくて、とても裕福とは思えないと言っていました(苦笑)

巨星墜つ

©産經新聞

日本の政治家として類稀なる実績を残した政治家が亡くなった。

故・石原慎太郎氏である。

今の都知事など氏の足下にさえ及びもしない。

韓国やChinaでは氏が「日〇関係を悪くした右翼」と書いているようだが、残念ながら過剰反応したのは先方であるし、なにより事実を事実として述べただけでも叩きまくったわけなので、その評価は正しくもあるが誇らしいものだと言える。

氏に比較すれば安倍元首相でさえその言説に迷いが見られるほどに見えてしまう。

私でさえ「それは言いすぎでしょう!」と思うこともあったが、とにかく大局を捉えながらも、細かな言説迄も大切にされていたように感じた。

毎年8月15日に、マスコミから「靖国神社には公人として私人として・・・」という馬鹿げた質問を投げかけられたら、「日本人が行って何が悪い!公人も私人もあるか」とはっきりとおっしゃった。

氏のおかげで、多くの人がいろいろ考えるようになったと思う。

それは賛成意見だけではないと思うが、私はそれでもいいと感じる。

それだけ言説に影響を与えるものがあったということだし、人は全員が同じ方向に向くはずもない。

いろいろ書いても薄っぺらくなりそうなので・・・

石原慎太郎氏の逝去に際し、心より哀悼の意を表します。

追記:政治家として共産党の志位委員長の「立場の違いへの言及控える」というのは、志位氏は考え方は違えど政治家であるという証であり、立場を違えた人で氏を侮辱する方々は本物の政治家などではない。その意味において志位氏の心遣いに感謝する。