3月11日に思ふこと

過去の自分のエントリーですが、そもそもこれは原子力発電所の発電量と稼働年月から40年を区切って、どの原子力発電所は使うことができるのかというのがスタートになっています。

その大元は10年前の福島第一原子力発電所の事故であり、それによる電力不足や計画停電によって考えさせられることが多くあったからで、本当にいろいろなことがあったものだと感じました。

福島第一原子力発電所の事故をきっかけに、東京都東部でホットスポットとなった場所があり、子供達のことを考えてまずは葛飾区に除染と線量を計測していただきたい旨の西岸のために、別団体と共に署名を集めました。

これについてはたった一週間で11万筆もの署名が集まり、区から早急に行うと回答をいただいた事案でした。

そりゃ11万筆は圧力ですよね(苦笑)

他のブログなどでも書いていましたが、私の父は泊原子力発電所の建設にかかった物理学者でもあります。

孫を心配する祖父として、そして原子力の専門家の意見は本当に貴重でした。

門前の小僧状態なのか、私も原子力発電についてはこうではないかということが想像でき、父に確認をしたり聞いてみたりしたところ、だいたい当たっていることが多かったのは父のおかげなのか、理系脳のおかげなのか役に立ちました。

そしてそのそれらを発信していくうちに、仲間と葛飾区と話をするための団体を作ることになり(当時はPTA関係では有名でしたし)子供達を守る会を結成、その後東京連合に参加して中心メンバーとして活動させていただき、東京都との話し合いや、国会での勉強会などさまざまな活動をさせていただいたことも覚えています。

それもすべて福島第一原子力発電所の事故があったからなのですが、その検証を当時の総理大臣だった人が全く理解しようとしていないことで問題がずっと問題のままでいるような気がしてなりません。

先日、国連関連団体から福島の事故ではがんの発生率などについて、当初予測より低くなると言ったレポートがでてきました。

本当に良かったと思っています。

同じことを繰り返さないためにも、10年前も思ったことですが、自分ができることをしていこうと10年目の今日、思ったことです。

3月11日に思ふこと

© 産經新聞
もう、なのかまだなのかはそれぞれの人によって受け止め方は異なるでしょう。

東日本大震災から10年という今日、やはりさまざまなことが頭の中をめぐります。

一昨年、東北旅行をした際、まだ復興中の場所を見たり、震災の被害が残っているところを見た時に、まだ復興は終わっていないのだと気持ちを新たにしました。

自分としてもできることを継続してと考えましたし、そこからもまだ続いている状態です。

東京で震度5でさえさまざまなことが起こったというのに、震度6~7および津波の被害とは私達には想像ができないものだと感じます。

私は体験していない人にはわからないことがある(震災だけではなく)と考えるため、軽々しく「たいへんだったね」とか「わかります」とかは言いません。

ですからどう寄り添い、できることをしていくのかというところで私は先に震災の後遺症から逃れられたのですから、次は人へのなにか助けとなることをすべきと考え行動しています。

携帯電話の画面の中に、津波から避難するようにアナウンサーが珍しく強い言葉でしゃべっていることと、津波の画像を見て自分は何を体験しているのだろうかと、脱力したこともはっきりと覚えています。

これを起点に、福島第一原子力発電所の事故も起こりました。

検証は残念ながらまだ続いているのは、未だに当時を省みることができない、当時の日本国のトップがいるからでしょう。

・・・と、今日は心穏やかにいこうと思っているので、このあたりでやめないとヒートアップしますね。

地震を風化させてはいけないという意見があるのはわかります。

災害があった地域は、その後も災害の危険があるため、その事実と対策を記録&記憶しておくことは必要です。

しかし、風化させるべき記憶もあると思っています。

なんでもかんでも記憶していれば、辛くなる方もいらっしゃることも私たちは知っておくべきです。

せめて鎮魂のために、今日一日は心穏やかにいようと思います。

3月10日に思ふこと

明日3月11日は東日本大震災から10年となるため、昭和20年3月10日東京大空襲関連のニュースが例年より少なく感じる。

なにもいつまでもアメリカを恨めということではない。

戦争の記憶として留めておくことが必要であるし、人間とは正義の名のもとに民間人虐殺を正当化するということの一つの例として記憶しておくことが必要だということだと思っている。

米国は原子力爆弾も各都市への集中爆撃も「戦争を早く終わらせるため」という言い訳を使用しているが、虐殺はやってはならないとなっている中で、言い訳を利用しながら(ここは軍事基地だった、そこと区分けはできないなどの幼稚な言い訳含む)東京やその他の都市を空爆して数万人規模での死者を出しているというのに、これを虐殺と言わない。

つまりは戦争に負けた側は何も言えないだけであって、勝った側の歴史の通りにしかならないということがはっきりする。

私は戦争はすべきではないと当然ながら思っている。

それはどちらも加害となり、人を殺す行為を正当化するものであるからだ。

どちらかが一方的に加害者であり、被害者であるなら、それは虐殺などと定義されるが、戦争は双方が加害者である。

だが、もし今後日本が戦争に巻き込まれる、行わなければならない状況が発生した場合、一つだけ言えるのは「負けない戦争をすること」としか感じない。

それが太平洋戦争の教訓の一つであると思う。

なぜなら3月10日になってさえ米国に嫌味の一つもいえず、それどころか先日の国際女性デーの在日米国大使館のヘッダーには、マンハッタン計画で原子爆弾を作成したメンバーの一人の華人女性をしれっと紛れ込ませるというたいへんに失礼な行為をやってのけている。

日本はいつまで敗戦国のままなのだ?と、またそれに対して抗議のひとつもしない自称右派を残念に思う。

横網に戦争の爪痕が保存されているが、見に行ったことのある人はどれくらいいるのだろうか。

当時を繰り返してはいかんと思いながら、頭を下げる人はどれほどいるのだろうか。

行動もせず、想いもせず、自分のことだけというのは、なんとも残念なことではないのだろうか。

世論という弊害

政治も、芸能も、そこらへんのことも、SNSやマスコミによる「世論」を気にして、それらが余計な方向に動くことが最近よくあると思うようになった。

政治は菅政権の揺れ方をみるとよくわかる。

そもそも菅総理の息子が東北新社にいて、接待をする側にいるのは、別段菅総理とは関係がない話。

そして官僚に対して接待して、それが額が多いって話だっていうなら、東北新社と接待を受けた側の官僚に問題があるだけの話であって、菅総理がそんなことに関与するわけがない。

しかし野党は阿呆だからそこらへんを突っ込む。

山田氏についてもそう。

野党「〇〇は問題だ!やめさせろ!」
政府「問題はあったかもしれないが適正に処置をしたので続投する」
野党「ワーワーギャーギャー」
マスコミ「ワーワーギャーギャー」
世論のごく一部「ワーワーギャーギャー」

政府「体調の問題でやめます」

野党「優秀な官僚が政府に潰された」
マスコミ「政府は何か隠しているのではないか」
世論のごく一部「わーいやったー!」

・・・って、馬鹿ですか?

特に野党は、自分たちがこの間言ったことを忘れているのですか?っていうレベル。

芸能では渡部健さんがそう。

はっきりいうが芸能人になにを求めているの?

清廉潔白さだっていうなら、特に芸人に対しては意味がないものだと思うがいかがか。

そもそも不倫をして世間に迷惑をかけたなんてことはなく、家族や周囲に迷惑をかけただけの話。

確かに公衆トイレとそのビルには迷惑をかけたが、彼が再起しようとしているのを邪魔をしているのはマスコミ。

マスコミは人の再起を妨げようというのか?

どんな人でもまともに再起をしようとしたなら、それを阻害する必要などあるはずがないというのに、豊洲に出入りしたから豊洲市場の邪魔をして、結果は渡部健さんはその会社に出入りできなくなっている。

これが一般の人の再起を阻んでいるとしたらどう考えるのだ?

一般人じゃないなんてことじゃなく、一人の人間が犯罪などではなくまともに再起しようとしているのであれば、それを邪魔することはおろかでしかない。

それにしても菅政権は脆すぎ。

陰に隠れてNHKと契約をしなかったら割り増しにする法案を通していたり、姑息。

バックグラウンドが弱いから結局他の力のある日とのいいなり。

先日、友人と話をしていて思ったのはいかに安倍政権がまともであったかということ。

世襲だなんだとか言うが、バックグラウンドであったり、その考えであったりが強い人がやはりいいということ。

そう考えると、世襲でもなんでもいいじゃないとは思うが、結局バックグラウンドがしっかりしているのは世襲の方が多くなるのは止むを得ないことなのかもしれない。

悩みどころではあるが、現実としてそうなっている。

そして残念なことにそれらが弱い菅総理は、今日もマスゴミに流されるだけ。

なんて余裕のない国になったんだろうと

JOCの森会長(本日で「前」とつくのだろうが)の所謂女性蔑視発言とやらで、メディアスクラムにて謝罪して撤回をしても、会長を辞任することになった。

その上でさらにマスコミは「許すことができません」とは、ずいぶんとまあ余裕のない馬鹿げたことをまだ続けようとしていることに辟易する。

個人的には森発言の全文を読めば単純に女性をDisっているわけじゃないってのはわからなくはないとは思うが、余計な発言だとも思うため、この発言そのものを擁護する気はないが、責め立てる人たちに対しては「全部読んでから言えば」としか思わない。

さらには、アスリート、元アスリートでも森会長の発言に反対する人がいるのだが、本当に全文を読んで反対としているのであれば、それは読解力がないと言わざるをえないと感じる。

そのうえで、トヨタ社長の発言については、私は違和感しか感じない。

トヨタという企業の文化が好きではないのだが、豊田章夫というキャラクターにはなにか感じるものがあったのだが、もし今回の発言が彼個人の言葉であるとしたなら、残念ながらトヨタに対する印象は、私にとってはさらに悪くなるものでしかない。

そもそもトヨタは自動車の国際大会で不正を繰り返したり、F-1日本グランプリからいきなり撤退をしたりと、モータースポーツ文化に後ろ足で砂をかけてきたため、彼らにはスポーツに対する理解はないと判断している。

数々の「女性キャスター」やら「女性コメンテイター」やらが、森会長発言を「謝罪しようが辞めようがそれでは許さない(概略)」という発言をしているわけだが、こういう発言をしていることに対して余裕がないというか、どれだけ男性に対してマウントを取りたいのだろうと感じてしまう。

私は女性と男性が違うものという前提を理解したうえで、そのパーソナリティによる個性を理解したうえで、その人にあった人生を選択するべきだと考えている。

そうではなく女性上位を訴えるのであれば、私には認めることはできない。