明日3月11日は東日本大震災から10年となるため、昭和20年3月10日東京大空襲関連のニュースが例年より少なく感じる。
なにもいつまでもアメリカを恨めということではない。
戦争の記憶として留めておくことが必要であるし、人間とは正義の名のもとに民間人虐殺を正当化するということの一つの例として記憶しておくことが必要だということだと思っている。
米国は原子力爆弾も各都市への集中爆撃も「戦争を早く終わらせるため」という言い訳を使用しているが、虐殺はやってはならないとなっている中で、言い訳を利用しながら(ここは軍事基地だった、そこと区分けはできないなどの幼稚な言い訳含む)東京やその他の都市を空爆して数万人規模での死者を出しているというのに、これを虐殺と言わない。
つまりは戦争に負けた側は何も言えないだけであって、勝った側の歴史の通りにしかならないということがはっきりする。
私は戦争はすべきではないと当然ながら思っている。
それはどちらも加害となり、人を殺す行為を正当化するものであるからだ。
どちらかが一方的に加害者であり、被害者であるなら、それは虐殺などと定義されるが、戦争は双方が加害者である。
だが、もし今後日本が戦争に巻き込まれる、行わなければならない状況が発生した場合、一つだけ言えるのは「負けない戦争をすること」としか感じない。
それが太平洋戦争の教訓の一つであると思う。
なぜなら3月10日になってさえ米国に嫌味の一つもいえず、それどころか先日の国際女性デーの在日米国大使館のヘッダーには、マンハッタン計画で原子爆弾を作成したメンバーの一人の華人女性をしれっと紛れ込ませるというたいへんに失礼な行為をやってのけている。
日本はいつまで敗戦国のままなのだ?と、またそれに対して抗議のひとつもしない自称右派を残念に思う。
横網に戦争の爪痕が保存されているが、見に行ったことのある人はどれくらいいるのだろうか。
当時を繰り返してはいかんと思いながら、頭を下げる人はどれほどいるのだろうか。
行動もせず、想いもせず、自分のことだけというのは、なんとも残念なことではないのだろうか。