「日々思ふこと」カテゴリーアーカイブ

営業として言ってはいけないこと

先日、あることで商品を見に行ったのですが、最終的に激怒して帰ってくることになりました。

当初、その日はものを見るだけで、最終的に良いものをリストアップして見積もりをしようと考えていたのですが、ある販売店で押しの強い営業に根負けし、話をすることになったのです。

クレジットについて通してみないかということがあったのですが、10分ほどですむということでやってみたのです。
しかし30分以上かかったうえにさらにゴリ押しの営業が続いたので「もういらない」と言ったのです。
だというのにまだしつこく営業を続けるので「いらないと言ってるだろ」と強めに言ったのです。

そうしたら彼は「なんで僕が怒られなきゃいけないんですか?」と、営業で提案しているのはさもあなたのためといういい方をしたので、「いいからとっとと書類返せ!」と怒鳴って、ようやく地雷を踏んだことに気が付くという・・・

ですが、たぶん彼は本質を理解していないのだと今でも思っています。

必要以上の営業は相手をいらつかせるだけですし、まして客になるかもしれない人間に逆切れして「なんで僕が・・・」と言うのは、営業としてあり得ないことです。

適度な距離を持って話すことが重要なわけですが、私はこう考えると営業には全く向かない人間だというのがわかります。

なにより初対面の方が何を考えているのがわからないため、臆病にならざるを得ないので^^;

先日、営業のプロと言える方のトークを見てきましたが、しつこく追いかけながらも相手との距離を測っているのがすごいと思いました。

相手をイラつかせない営業トークは本当に難しいと思います。

歴史学者で同団体関連に所属している人はそれでいいのだな?

慰安婦の強制連行は実証済み 日本の歴史16団体が声明-聯合ニュース
2015/05/25 17:30

【東京聯合ニュース】歴史学研究会など日本の歴史学関係16団体は25日、都内で「『慰安婦』問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明」を発表し、慰安婦問題を歪曲(わいきょく)する行為を中止するよう求めた。

 声明は「強制連行された慰安婦の存在はこれまでの多くの資料と研究によって実証されてきた」と指摘。「事実から目をそらす無責任な態度を一部の政治家やメディアがとり続けるならば、それは日本が人権を尊重しないことを国際的に発信するに等しい」と強調した。

 また、朝日新聞社が朝鮮人女性の強制連行を証言した故吉田清治氏に関する記事を取り消したことは、旧日本軍の同問題への関与を認めた1993年の河野洋平官房長官談話の根拠が崩れたことにはならないと主張した。

 歴史学研究会の久保亨委員長によると、声明に参加した学者数は約6900人に上るという。声名は慰安婦問題の加害国である日本で活動する歴史学者らが意見を表明したもので、今後、日本国内の世論に及ぼす影響が注目される。

 歴史学研究会は昨年10月、「吉田証言の内容の真偽にかかわらず、日本軍が慰安婦の強制連行に深く関与し、実行したことは、揺るぎない事実である」とする声明を発表した。その後、同団体は歴史科学協議会、日本史研究会、歴史教育者協議会など、声明の趣旨に賛同する団体と慰安婦問題の歪曲に共同で対応することにし、約半年にわたり関連団体の意見をまとめる作業を行ってきた。
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同団体関連に所属する学者と呼ばれる方々は、本当にその考えが正しいと思っているのだな?

それならば構わないが、それが正しくないというのであれば、内部からただすための声明を出すか、脱退するかのどちらかを選ぶべきである。

日本人が日本を貶めるなどというのはあり得ない。

この記事によると、慰安婦の強制性は間違いないとなっているわけであるが、証言以外の『証拠』がないというのに「感情だけで」それを正しい事象とするのは愚かなことである。

まして、強制性はなかったということに対しての立証の方がはるかに正しく感じられるのは、物証、米国の公文書、オランダの公式声明などで明らかにされていることではっきりしている。

つまり「慰安婦は売春婦である」ということであり、慰安婦の強制連行という大嘘をあばいている。

反論する人達は感情論に訴えるのではなく、物証を持って立証すべきである。

勘違いをしていただきたくないのは、太平洋戦争(大東亜戦争)期に慰安所が存在し、そこで売春行為が行われていたのは事実であり、そこに「家族に売られた」「女衒に引っ張られた」女性たちがいたのは残念なことである。

これは歴史の上において女性の人権が軽んじられていた部分があると取られても仕方がないことであるが、売春が合法であった時代においてこれもまたやむを得ない事実であることを認めなければならない。

売春に対しては残念なことではあるが、だからといって「慰安婦は強制連行をされて性奴隷にされた」という嘘を、認めるなどというのは全くあり得ないことである。

もう一度書く。

反論する人たちは物証を持って立証せよ。

ゲームはどうなっている?

携帯電話で手軽にゲームができるようになり、ゲーム産業はその斜陽化が止められなくなったと捉えられているかもしれない。

電車の中であそこでもここでも、似たようなパズルゲームをやっている人が多く、さながら「パズ○○祭り」のようである。

携帯電話のゲームであれば開発コストも低く、利益率も高く見込めると思っているからこそゲーム会社も参入しているのであろうが、大ヒットとなる作品となれば、それは本当に一握りのものに過ぎないというのは誰でもわかること。

新コンテンツなどといってみても、結果としてどこかのゲームのパクリだったり、そのハードでは初であったりと実はあまり内容は進化していない。

今のパズルゲームもエンタテイメント性を高めてはいるが、テトリス以来中身そのものは変わっていないといっていいだろう。

あのテトリスも開発当初は個人であったとされるため、猫も杓子も一攫千金を狙ってアプリ開発を個人でやったりしているわけだが、そんなヒットはごくごくまれであり、とてもではないがラッキーが数十回重ならなければ無利である。

じゃあゲーム産業は終わりなのか?といえば、私はそうではないと思っている。

据え置き型ゲーム機であっても、その専門性を生かしたゲームを作ることで、一定のヒットを飛ばすことは可能であるし、固定客に絞る戦術もあるといえる。

事実としてスクエア・エニックスは過去のタイトルにすがって利益を出している状態といっても過言ではなく、新作といえるもので目立ったものはない。

だが、それでも企業として成り立たせようと思うのであれば、必死で過去のタイトルを守り、存続させることでさらにその次の戦略を考える時間はできるようになる。

ただし、残念ながら過去のような大ヒットはよほど目線を変えない限り無理であろうし、同じようなおいしい思いは無理だと気がついてやらなければならないだろう。

ゲームハードはといえば、PS4の異例ともいえるヒットが驚きなのであるが、私としてはPS3の時代からゲーム機だけではない使い方をしているため、ホームエンタテインメント機器として「ゲームもできるハード」という位置づけをもっと明確にしてはいかがかと思う。

今も映画をテレビで見るために使っているし、PS3とは関係はないが(というのも元々がオーディオマニアであったため)5.1ch、7.1chなどの視聴環境を「ゲーム機を中心に」据えることで、ハイレゾ音源再生機器などとしての使用も含め、メーカーAV機器関連商品への売り上げ期待も可能となる。

また過去のゲームを定額料金でできるなどというものもあるため、そうしたコンテンツも昔のゲーマーにとっては魅力的に映るかもしれない。

その意味において「ゲーム産業」といえるかどうかは別として、この手の会社が生き残ることは十分可能であり、魅力的な産業・・・となっているとは思う。

3月11日に思ふこと

今日は日本人ならだれでも知っているといっていい、東北地方太平洋沖地震を発端とする東日本大震災のスタートの日でした。

あの日亡くなられた方々を思ふために、14時46分には目を閉じて祈りたいと思っています。

もう4年なのか、まだ4年なのか・・・と感じていますが、時は前に進んでいくため生き残った私たちは生きていかねばなりません。
ただ風化をさせることはなく、しかし悲しい記憶が被災された方々から少しでも無くなるようにとも祈っています。

今でもテレビでみたあの被災の様子は忘れることがありません。
洪水が恐ろしいものであるとわかっていたはずなのに、そこにあったものは自分の想像を超えたものでありました。
それゆえに備えるべしと思うわけですが、人の思いとは土地にもあるようで、なかなか離れられないのもわかります。
ですが、多くの人が亡くなることの無いよう、さまざまなことを考えていただきたいと願うものです。

また福島第一原子力発電所の事故による汚染はまだ当分収まる様子もなく、私が生きているうちには到底すべての地域がきれいになるとは思えません。
しかしながら除染をすることで安全となる場所には、それぞれが工夫をして少しでもきれいにするべきです。
私も微力ながらそうした手伝いをしていければと思います。

無責任に国が悪い、誰が悪いというのは楽なことですが、批判する前に自分は何ができるか、何をするのかと考えるべきです。

行動だけではなく、為政者と話すことも活動となるものです。
引き籠って自分たちだけで話をしていても何も生まれません。
ただし自分の思いだけが正解と思っては成り立ちません。
人との話し合い、意見が違う人との討論を通じて、より明るい道を探ることこそ重要です。

これからの何十年、この日がくる度にこうしたことを思うのです。

苦しんでいる方々が少しでも明るくなることができるよう、自分は自分のできることをやっていくしかないと感じます。