北海道のブラックアウトについて

一部自分のツイッターを引用しています。

北海道電力は現在、石狩湾新港発電所を建設中。
これは311以降に計画されたものであり、電力の安定供給を目指して作られたもの。
2014年に着工し、試運転は今年後半から行い、2019年の早い時期に営業運転を開始しようとしている。

しかしながら、これは3機あるうちの1号機であり、発電量は56.94万kwである。
ちなみにこちらはLNGでの発電。
今、動かしている古い火力発電所一基と比較すれば大きいかもしれないが、石狩湾新港発電所は同じ規模のタービンを2機予定しているため最終的に170.82万kwとなる。

今回停止した北海道最大の火力発電所である苫東厚真発電所は以下の通り。
1号機 35万kw
2号機 60万kw
4号機 70万kw
合計 165万kw
こちらは石炭での発電。

北海道全体で9月初頭に必要なピーク電力は380万kwだったわけで、夜中であれその半分弱を担っていたこちらの発電所が直下型の地震で停止してしまい、発電が安定せずすべての発電所が停止してしまった。

これを防ぐ目的のためにも、石狩湾新港発電所が必要だったわけで、少なくとも安定的に電力を供給するには「三カ所」の大きな拠点が必要となるのは、専門家の方が発言しているのでここでは割愛するが、三か所ということであれば、大規模に発電できるのはもう一カ所ということになる。

それが泊発電所、つまりは原子力での発電ということになる。
1号機 57.9万kw
2号機 57.9万kw
3号機 91.2万kw
合計 207万kw

あらためてこの三つの発電所を並べる
170.82万kw 石狩湾新港発電所(LNG)
165.00万kw 苫東厚真発電所(石炭)
207.00万kw 泊発電所(低濃縮ウラン)
これらの合計は542.82万kwで、ほぼ北海道のピーク電力とイコールとなる。

しかしながら、これら合計9基の発電機は定期点検がそれぞれ必要であるし、故障があるかもしれないことを考えれば、これだけで足りるわけでもない。

また今回の周波数が不安定となって他の発電所までも巻き込んで落とすことを考えれば、一定以上の余剰電力がなければ北海道がまたブラックアウトする可能性がある。

だが、これら三カ所が安定稼働していることができれば、ピーク時からみても一カ所が途絶えたとしても、残り二ヵ所でなんとか一瞬まかなって他の発電所にも頑張ってもらって安定発電に乗せることは可能であろう。

もしフルで動いていて200万kwが途絶えたとしても、300万kw以上が供給されており、他の発電所からの発電もあるため、今回のような極端な電力不足に陥ることはない。

これらを前提に考えるに、安定的に電力を供給するには「三カ所」の大きな拠点が必要であるならば、この三カ所をうまく使うことで北海道のでんりょくを安定的に供給することが可能となる。

ただし、泊発電所には40年まであと11年の余裕しかないため、さらに安定を求めるなら3号機の仕様年限である2049年までに150万kw級の安定的発電所が必要となるはず。

そのためにも石狩湾新港発電所の1号機営業運転開始後より、早急に次の議論をしておく必要があると考える。

私は将来的に原子核反応炉をなくしていくべき(新規は作らない)と考えているため、今あるものはつかっていくことでまずは安定を求めるべきと考えている。

というのがツイッターで連続投稿した内容です。

これに追記するのは、まず泊原発における非常電源についてです。

すでに共産党の小池晃氏の発言が無知だとたたかれまくっていますが、泊原発が今回のブラックアウトの際に非常用電源になるのは当たり前です。

なぜなら、泊原発が動いていない状態で、北海道のすべての電源が落ちたわけですから、当然ながら非常用電源になるわけです。

これを「異常事態」としている人は、そもそもの話し合いに入る資格さえありません。

この部分を否定する程度の「理科力」しかないのであれば(物理だの化学だのの前です)、それ以上の議論などできません。

そして放射脳の多くに、こうした発言が見られます。

つまりは「非常」というだけで脊髄反応をするだけであって、冷静な判断能力など期待できようはずもありません。

改めて

発電所 苫東厚真 石狩湾新港
1号機 35.00万kw 57.90万kw 56.94万kw
2号機 60.00万kw 57.90万kw 56.94万kw
3号機 -  91.20万kw 56.94万kw
4号機 70.00万kw -  - 
合計 165.00万kw 207.00万kw 170.82万kw

今回は、一番右の石狩湾新港がない中で、380万kwのうちの165万kw(夜中なのでもっと大きい比率のはず?)という大部分をロストしたため、2/3程度の電力を保つことができず、ブラックアウトしてしまった。

では、泊が動いていたらブラックアウトしなかったのかといえば、一時的に制約はあったにせよ、全面的なブラックアウトにならないのは、207万kwの電力が確保できれば、ブラックアウト起こる2/3程度を下回ることがないからです。

「いやいや周波数が安定しなかったら泊も落ちたのではないか?」などという質問が起こっているが、非常停止以外では運転そのものを止めることはできません。

それは構造上のものですから、発電は停止しない限り止められることはないわけです。

「そんなんじゃ危ないじゃないか」って言います?本来、原子炉は数秒で停止できるのですが、放射脳には理解できないでしょう。

まあ、そんなときのための非常電源なわけなんですが、原子炉さえ停止しなければ発電は続くわけで、安定して発電が続けばブラックアウトが起きることが少ないだけの発電量を泊原発は保有しているわけです。

一時的に一部が停電したとしても、全面的なブラックアウトは起きないであろうということですし、火力発電所の再発電までの電力も確保できるのですから、少なくとも今回のブラックアウトとは問題にならないくらいの速度で電力の復旧はされたと考えられます。

はっきり書きますが、泊原発を止めているのは北海道にとって悪夢です。

2049年までは91万kwを確保できますが、それまでに少なくとも150万・・・というのはツイッターに書きましたね。

付加価値というもの

先日、長瀞へ行った際、話題のかき氷を食べてみたいと伺ったのですが、いろいろ感じたことを書いてみます。

それこそその土地のカキ氷の氷は、その会社の氷しかないんじゃないか?くらいの勢いでした。

「氷」の幟があるところにははっきりとその名前が書いてあります。

その名は「阿佐見冷蔵」。

で、岩畳そばのある一件にお話を聞いたのですが「私達はこの値段(450円)でずっと昔からやっているが、この会社は最近1000円以上でやっているけれど高すぎるよねえ…」とのこと。

そちらのお店は450円でそれなりに稼いでいらっしゃるのでしょうから、どうこう言ってもしかたがないのですが、反論するとしたら「あなたのお店には行列はありませんが、あちらはそのお値段で行列ができていますがなぜでしょう」というものでした。

つまりは付加価値の問題だと感じたわけです。

今のままでよければそれはそれでいいのでしょうが、阿佐見冷蔵さんは氷の販売だけではなく、カキ氷の高額差別化でさらに利益を出しているわけです。

それで、実際に登山口店に行ってみました。

はっきり言えるのは、シロップが有り物を使っているわけじゃないというのと、氷の削り方を氷屋さんだからこそわかっているというものでした。

前述のお店の方は有り物のシロップをかけて販売する訳ですが、そのシロップの三倍の単価をかけても粗利は一緒になりますが、せいぜい二倍程度でシーズンだからこそスタッフを増強して…でも、二時間近い待ち時間のお客さんが途切れないのですから、その利益たるや想像に難くないわけです。

どちらのお店がいいかなんてのは本人の考え方次第ですが、企業として利益を出すことを考えるのであれば、間違いなくこの両者は参考になるものです。

あなたは付加価値を持っていますか?持とうとしていますか?ということだと思いますし、持たなくてもいい人生の選択も有りだということです。

非正規はそんなに悲惨か?

というわけで、非正規=派遣労働者です。

じゃあ、対価が低いかと言えば、低いと言ったら世の中一般の方から袋叩きされそうなれべるです。

テレビを見ていると非正規の悲惨な現状なんてのをやっているわけですが、私はサラリーマン7年の後、非正規を3年、会社代表を16年、そしてまた個人事業主or派遣を5年やっていますが、食うに困るほどの困窮はないといっていいでしょう。

運もあったと思いますが、私は100%付加価値を生み出さないと企業から切られる仕事ですので、それこそ必死で結果を残さねばなりません。

結果を残してもマネージャが変わって気に入らないからと切られたり、そもそも入るプロジェクトが潰れて別のプロジェクトのPMに入って要件定義3ヶ月だけで放り出されるなんての日常茶飯事です。

それでも困窮しないのは、運と人脈と努力しかなく…といっても、努力なんてのはほぼ全員がしていると思っていますが、日々結果を残し続けなければならないわけで、運だけでも生きてはいけないのが真実です。

じゃあなぜ非正規なのに困窮しないのかというと、誰もができることをやらないのと、こいつじゃなきゃだめだと思わせることをしているからで「誰でもできる簡単なお仕事」では、特に非正規なら報酬は低くなって当たり前です。

そこにたどり着くまでに自分はなにをしてきたか、運をつかむことはできたのか、付加価値を相手に認めてもらえたのか等々冷静に自分のたどってきた道を眺めてみると、今の自分の置かれた場所が見えてくるのではないでしょうか。

もちろん運の悪い人がいるのも事実で、そういう方はセーフティーネットを使うことができるようにしたり、次の場所に立つための手伝いをする人々が努力すればいいのです。

しかし、ほとんどの人はそれまでの結果が全てだと(運、人脈、努力、その他)思うべきで、嘆いている暇などないはずです。

あなたは今なにをするべきなのでしょう。

私は100%の付加価値を認めてもらうため、今日も結果を出すのみです。

このごろ思ふこと

ブログを頻繁に更新することがなくなったのは、いろいろな人が自由に発信するようになったのと、自分の中でブログへの落ち着きというか、発信するものが減ったということもあり、書かなくなっています。

テレビに出たときからしばらくは、読者数やページビューも凄まじかったですし、自分が保護者として発信すべきものがあったので、日本テレビなどに今でも感謝をしています。

あのころの情熱はないのですが、最近世の中が本気で劣化してきたなあと感じるのです。

ひとつは遊びがなさすぎること。

これはテレビがつまらなくなったことではっきりとわかります。

あっちたてればこっち状態で、すべてのクレームを排除しようとするからそうなるのです。

私達が子供の頃にはドリフターズが、青年期にはビートたけしさんや明石家さんまさんが全国PTA連合会などの組織から目の敵にされましたが、そんなものは知ったことかと、他人ではなく自己を犠牲にして笑いを取っていました。

しけし、今は何かをすれば差別だ、いじめだとやかましい人々がいるわけです。

二つ目は大人が大人ではなくなったと感じることです。

日本大学アメリカンフットボール部が典型的な例で、日本大学は大学の名前と監督を守ろうとしているようにしか見えません。

古き良きものがいいとはいえませんが、自分に責任があると言っておきながらも、加害選手の発言は異なるとか、監督と選手間でそのような話ができるはずがないと言ってみたりとか、守るべきものはなんなのか、完全に間違えていることがあるのです。

あと、友人がよくつぶやいていますが、食べ物屋に行って、マナーのなっていない大人のことを書いているわけですが、肘をついて食事をするなどといった、大人であるなら間違いなく知って実行できなければならないマナーができない人が増えました。

また、金を払っているのだから店員に悪態をついても問題がないとか、恫喝しても良いだとか、当たり前ではないことをさも当たり前のようにしてしまう大人が増えました。

おかげで日本人はこうなってのから、どんどん外れるような気がしていて、過去に築き上げていただいた日本の名声が失われているような感じさえします。

政治や経済もそうで、日本人と言えるのかさえ危うい政治家がただ声がでかいだけでのさばっていたり、与党だからと胡座をかいて、とんでもない発言をするなどよく見るわけです。

経済にしても規制と既得権と成功体験から抜け出せず、Chinaに置いてけぼりになる技術などもどんどん出てきています。

とにかく決定が遅く、スピード感が全くないことに、危機感さえ感じるわけです。

それは私がブログを始めた13年前には感じられなかったこと、もしくはあまり感じなかったことだというのに、今は嘆かわしいことが重なっているようにしか見えません。

日本が好きな日本人だからこその危惧です。

なのに言ってしまう「最近の若いもんは」^^;

先日書いたばかりなのに、このところのTwitterで若い人たちの発言にがっかりすることがあります。

高須クリニックの院長の発言に対して、いろいろと反対意見を出してくるのですが、高度経済成長からバブル期頃までを支えまくった人に比べて、今の方が仕事が忙しくて休む暇もなく、給与も安いなどと書いているわけです。

これには正直なところがっかりしました。

自分だけが不遇だと思うことが、この発言の根幹にあるのだと感じるわけですが、嘆く前に何かしたのだろうか?と考えるのです。

1986年の就職活動組は、最後の就職氷河期といわれました。

翌年からバブル入社が始まるわけですが、私たちにはまったく関係もなく、会社の勝手な都合によって、給与の締め日の変更などが重なり、私の初任給手取りは七万円でした。

アルバイトでもその三倍は稼いでいたわけですから、その瞬間に「とっととこの会社を辞めてやる」と思ったのは言うまでもありません。

そこからの三年は店頭登録準備もあり、また会計システムリメイクの担当になったこともあり、凄まじい勢いで仕事をしました。

1987年はまだ汎用コンピュータにDAM端が少数でシステム開発をするような感じで、プログラムを打ち込むにも端末の予約、コンパイルをしてもジョブ待ち、コンパイルリストは別のところに取りに行く上、タイムラグが発生、そして机上デバッグをして端末予約…その繰り返しでした。

私が恵まれていたのは、本社の情報管理部で、汎用機も同じ部屋の中、DAM端ではなく、PC-UNIXにエミュレータのついた○百万円の端末が一人一台、コンパイルリストは部屋内のプリンタから出るので、デバッグの時間も短縮…本当に恵まれていました。

しかし、安い給料は相変わらずでしたが、さらに幸いだったのは次長が会社と掛け合い、同じ部署のメンバー全員に、残業代がすべて出るようにしてくれたことでした。

そして、三年後に落ち着き、他の部署からのヘルプで、所属は本社のままで現場に出たのですが、給与の安さを再確認し辞めることを心に決めたときに、店頭登録をしたい会社から会計システムをスクラッチで作成したいので、そのリードとして来てくれないかというお誘いをいただいたのです。

しかも給与は年俸分と一定以上の作業時間を超えた場合の残業代ということで、報酬としては26歳の小僧としては恵まれたものになったのです。

とまあ、ラッキーがあったのは間違いがありませんが、その前の三年間はそれこそ死に物狂いで安い給料でも仕事をしまくったわけです。

環境に恵まれていたこともあり、その部分にも幸運がありましたが、はっきりと自分で他の人よりもやったと言えるだけの仕事内容をしたと思っています。

また、否定する人もいますが、過労死してもおかしくないほどの残業をして、精神的にもタフになったおかげで、その後の独立期にあった大概のことに耐えられたのは、これらの経験があったのも要因の一つだと考えています。

若い人たちに問いたいのは、そこまで本当にやってみた?というものです。

初任給七万円、最初のボーナスは小遣い程度、冬のボーナスも一ヶ月以下…と、私だって情けないくらいの生活をしていました。

しかしそこをはねのけたのは、運と努力があったからだと今だから言えるのです。

途中何度も自分が不遇ではないかと思ったこともありましたが、50歳を超えた今は山も谷も大きかったけれど、まあ普通よりいいのかな?と言えるキャリアになったと考えています。

若者は可能性を山ほど持っています。

だから、愚痴る暇があったら、それを打開することをやってみろ!と言いたいのです。

やっと就職が売り手市場になり、これからが間違いなくチャンスです。

このチャンスを逃したら次はない!と思って死ぬほど…とはいかないまでも、転職を含めて自分の道を探してみてはいかがでしょうか。

私から言わせれば、若い人は私なんかよりもっと可能性を持っていると思うので、今こそ立て!とそう感じているのです。