パキスタンで学校が襲われ、100人以上の学生を含む人々が亡くなった。
これを主導したのが、パキスタン・タリバン運動。
タリバーンといえば、他宗教を認めず、人類の遺産であるバーミヤンの石仏を壊したり、厳密にムスリムの教義に従うように強制した政権をアフガニスタンで展開したと多くの人が理解している。
確かに今のパキスタン・タリバン運動はアルカイーダとの関係も指摘され、すっかりテロ組織のように捉えられているわけだが、それがムスリムの全てではないはずだ。
ムスリムの教えも、家族を愛し、隣人を愛し、平和国家を作るとされている(はず)。
なのになぜ、彼らは戦闘を好んでいるように見え、他宗教を認めないどころか、同朋をも攻撃をするのかといえば、教義を自分たちの都合の良いように解釈し、自分たちを受け入れない者を敵対する者とみなし、ただひたすら正義だとうそぶき、戦闘を繰り返している。
そんなのが16億人以上もの人々が信じる教義になろうはずがない。
本来は、シャハーダ、サラー、ザカート、サウム、ハッジの五行の義務があり、六行目にジハードがあるとされている、
ジハードは「神のために奮闘すること」ということで、決して「聖戦」というような意味合いではなかったようだ。
しかしながらコーランの中に「異教徒との戦い」というものがあり、どうもそれが異なった形として認識されているのが、そうした好戦的な団体の狭義的なものだと考えられる。
つまりは本来シャハーダで「アッラーが唯一の神である」ことと「ムハンマドは神の使いである」ことを証言し、礼拝をし、浄財または税金を納め、ラマダーンにサウム(断食だけではなく性欲を絶ち、卑猥な言葉を口にしないなども含む)をし、メッカへの巡礼をするのが彼らの教えなのである。
どこにも戦えなどというのはないはずだ。
だが、一神教同士の争いは過去には戦争を生むこともあり、キリスト教徒との戦いは自分たちの教えを守る目的で、イスラムに進行したのがよく知られているわけで、決してムスリムだけが争いを好んでいるわけではないし、そもそも古くから根付いている宗教が、戦争を好んでいる表現を使うことはまずないと思われる。
そしてもう少し踏み込んで言えば、キリスト教もムスリムも祖は一緒だと思われるため、互いに「汝隣人を愛せよ」の精神があると考えている。
そのため「ムスリム=悪」などというのは間違いなく存在せず、一部が曲解を以ってジハードを意訳し行っているだけなのである。
だからムスリムと聞いても敵視してはいけないのだと理解をしている。