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貧困は自己責任か?

私は両方の側面があると思っています。

まず、貧困の連鎖ということで、自己責任とは言えない部分から。

親がなんらかの事情で働くことができない、稼ぐことができないことにより、子供が満足に学ぶことができずに貧困に陥ることというのはあると感じます。

具体的には申し上げられませんが、PTAで活動させていただいていた時に、リアルに貧困の状態を見て自分がどうすべきか考えたということがあります。

しかも、生活保護は受けられない状態だったため、それ以外の助成などを案内することで、少しはましになったとは思っているのですが、とてもではありませんが普通の生活というものさえ危うかった家をしっています。

その場合、子供をどうやって満足に学習させるかと考えた場合、当時始まっていた放課後の活動の中で学ぶ場を設け、ボランティアの方が学習サポートをする形で可能となりました。

幸いなことに公立学校であれば高校までは低い投資で通うことが可能であるため、高等学校までは進学できたことを知っています。

その後、地方に引っ越しをしたと聞いているため、現在はどうなっているか不明ですが、子供は努力をしていたために、そこからの脱出ができていることを信じています。

一方で自己責任だという部分も感じています。

それは最低でも義務教育時に子供に学習をさせる機会をきちんと作らなかったこと、より上位の学校に進むことにより貧困の可能性が少なくなることを教えなかったことがあり、それを子供も実践してしまった場合には自己責任と言わざるを得ないと思っています。

日本において一番平等なのは学習における成果、つまりは学力であり、テストの得点だと思っています。

誰でも点数をあげることは可能であり、点数をあげることはすなわち成績を上げることになります。

成績を上げることは次のチャンスを得ることにつながるわけで、それが貧困からの脱出につながるものです。

その努力を怠った状態で貧困の連鎖をし、そこで「貧しいから何とかしてほしい」って私は違うと思っています。

私の実家は裕福とは言えませんでしたし、子供の頃はとてもでもありませんが余裕のある生活をしたと思っていません。

まして当時の公務員は今の公務員のように給与条件は良くはなかったため、私達兄弟は「役人だけにはなるまい」と思って二人とも民間企業に就職をしたのです。

弟はすんなり勉強で努力をし、結果を出し、日本でも有数の企業に入社し、現在では部長職にあるわけですから貧困とは程遠い生活をしています。

対して私は勉強を途中でスピンアウトし、紆余曲折を経て二年ほど余計な道を歩み、専門学校を経て一般企業に入社し、そこで上場を経験し、次の企業に上場したいからと誘われ転職し、企業を経てまたフリーランスに・・・などと曲がりくねった人生ですが、なんとか普通以上の生活はできるようになっています。
(貧しいと書いたら怒られるのは必至でしょう)

ここで私たち兄弟の境遇を考えるに、二人とも公立学校のみでこの状況になっています。

私たちの両親が優れていたのは、学習による成果が未来につながるという信念で、学習をする習慣を身につけさせてくれました。

おかげで弟は北海道で有数の高校から国立の有名大学を経て大企業という、ある意味での成功を果たしています。

私は途中でスピンアウトしましたので、高校以降はなにもありませんでしたが、学習することを学んでいましたので、専門学校と会社員になってから死ぬほど勉強しました。

経営のこと、コンピュータのこと、会計のことなどなど、資格を取りまくり、大卒の連中に負けてたまるかという信念でやってきました。

それがようやくここにきて落ち着いたという状況になっています。

言いたいのは「学習は誰にも平等であり、その結果を出すことで比較的簡単なのし上がり方」だと言うことです。

今は海外からの攻撃が続いているので閉鎖している教育改革のブログですが、そちらではさんざん書きました。

塾の必要のない公的教育をしろ!と。

弟と私も塾を頼ることなく(浪人時代の予備校は除く)公的教育のみでやってこられました。

それは詰め込み教育と言われた時代でありながら、両親が「考える力をつけるための学習」というものを教えていてくれたからです。

そもそも受験戦争が激しいと言われていた時代でしたが、つめこみ教育だけでは当然ながら限界があり、ただテストの点数をあげることだけということには当然ながら批判されたものです。

しかし、では人間の学習能力を測るのに、一番簡単な方法はといえば理解力をテストの点数で測るのが効果的でかつ実践的なのです。

だからこそ良い企業を目指したいとか、将来の職業の選択肢の幅を広げたいと考えるのでしたら、テストでより良い点数をとって、より良い学校に進むことが現実的なのです。

で・・・貧困だと騒いでいる方は、その努力をし続けましたか?と問いたいわけです。

もちろん不幸が重なったり、運が全くなかったりという場合もあるでしょう。

私も会社がうまくいかず、離婚をして・・・などという時には運がないとか、不幸だと思ったりもしましたが、意識を切り替え前を向いて人並み以上の努力をした結果、なんとか今の状況になったわけです。

その間も努力をし続けましたし、学ぶことをやめませんでした。

そういった経験から言えることが「学ぶ努力をし続けたのか?」ということなのです。

それを怠った結果で貧しいとだけ言い、言い訳だけしていても何もならないと思うのです。

だからこそ両面あると申し上げていますし、そもそもが7人に一人とか言う「相対的貧困」が世界で言う「絶対的な貧困」ではないと考えるわけですから、どこでどう努力をするのかというのが重要になってくるのだと思っています。

このエントリーの最初の方で案内したご家庭は、残念ながら「絶対的な貧困状態」にありました。

その後もそこまでの貧困はホームレス以外に見たことがありません。

今の自分をどうとらえ、どう努力するかというのも重要なのではないかと思います。

学校教育と部活のあり方

小中学校で先生の業務に影響があるので、部活をやるとたいへんだからやらないように法制化してくれという意見がでているそうです。

元高校教師で、バレーボール部の顧問兼監督だった父を見ているので、なんでそういう意見がでるのかな?と不思議になります。

つまりは、現行の学校制度はそういうものがあって成り立っていることを知って教師になったのではないかと感じるわけです。

父の言葉を借りれば、「教師は仕事じゃなく生き様だ。職業として捉えたら公教育は成り立たない。」というもので、私はこれに強く賛同しています。

例えば、機会平等の意味も含まれているわけで、勉強ばかりを取りざたしていますが、芸術やスポーツも子供たちには必要です。

学校に部活がなければクラブチームや教室に通えばいいじゃないかという意見も聞こえてきますが、公教育の部活動でかかる費用でそうしたクラブチームや教室に通うことはできません。

それではまた、ここに教育にかかる機会平等が失われてしまいます。

じゃあ、部活に外部指導員を呼べばいいじゃないかという方もいらっしゃるでしょうが、指導のプロを安く呼ぼうと考えるから軽く言えるのです。

すこし教育から逸れますが、私はプロとしてサッカーを教える側にいますので、外部指導員制度に一言あります。

プロを格安で呼ぶことばかりを考えないでいただきたいと思っています。

そして、アマチュアで成り立っているものと、プロフェッショナルで行われるものを区別していただきたいと考えます。

例えば、学習塾や音楽教室、絵画教室ではプロの先生に教えてもらいます。

本気でゴルフに取り組もうと思ったら、レッスンプロに習うはずです。

しかし、特にサッカーと野球にアマチュアの無償ボランティアが美徳という風潮があります。

私はこの風潮に異を唱えています。

無償のボランティアでコーチをされている方は尊重します。

すべてがプロフェッショナルのコーチでまかなえないからこそ無償ボランティアのコーチのクラブがあって成り立っているのは理解しています。

しかしながら誤解を恐れず言えば、公教育と同様で突き抜けてできる選手などの受け皿にはなりにくいのが事実です。

中学校以上で、無償ボランティアのチームからナショナルトレセンのようなところにでる選手をこのところ見ていません。

なぜなら、プロフェッショナルのコーチのいるところに、その保護者や周りの人が送ろうとするからです。

それは何かといわれれば、責任の違い、つまり極端な言い方をすれば結果責任の違いだと理解しています。

東京下町出身のプロ野球選手とJリーガーを例に挙げますが、始めたときは無償ボランティアのチーム(会費は数千円)で、レベルを上げるために町クラブに入り(会費が一万+遠征費)、全国大会出場レベルの高校に進学し、そこからプロフェッショナルの選手として活動しています。

レベルを上げた段階で指導者の質も、お金も断然変わってきています。

これが事実です。

そうしたより上へ・・・と進む前の、入り口としての部活動というのがあるべきだと思いますし、それは公教育の中で「教育機会の平等」として担保されるべきだと考えています。

ですから、もし教員が単なる仕事であり部活動をしないような法制化をされるようであるならば、それに代替する部活動の在り方を考えなければならないわけで、そこには現実として今以上のお金がかかるのだという理解が必要になります。

そしてでき得ればプロフェッショナルが指導をするという形が間違いなく望ましいと考えます。

プロフェッショナルとは・・・あるCMの言葉を借りれば「結果にコミットできる」人ということです。