先日書いたばかりなのに、このところのTwitterで若い人たちの発言にがっかりすることがあります。
高須クリニックの院長の発言に対して、いろいろと反対意見を出してくるのですが、高度経済成長からバブル期頃までを支えまくった人に比べて、今の方が仕事が忙しくて休む暇もなく、給与も安いなどと書いているわけです。
これには正直なところがっかりしました。
自分だけが不遇だと思うことが、この発言の根幹にあるのだと感じるわけですが、嘆く前に何かしたのだろうか?と考えるのです。
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1986年の就職活動組は、最後の就職氷河期といわれました。
翌年からバブル入社が始まるわけですが、私たちにはまったく関係もなく、会社の勝手な都合によって、給与の締め日の変更などが重なり、私の初任給手取りは七万円でした。
アルバイトでもその三倍は稼いでいたわけですから、その瞬間に「とっととこの会社を辞めてやる」と思ったのは言うまでもありません。
そこからの三年は店頭登録準備もあり、また会計システムリメイクの担当になったこともあり、凄まじい勢いで仕事をしました。
1987年はまだ汎用コンピュータにDAM端が少数でシステム開発をするような感じで、プログラムを打ち込むにも端末の予約、コンパイルをしてもジョブ待ち、コンパイルリストは別のところに取りに行く上、タイムラグが発生、そして机上デバッグをして端末予約…その繰り返しでした。
私が恵まれていたのは、本社の情報管理部で、汎用機も同じ部屋の中、DAM端ではなく、PC-UNIXにエミュレータのついた○百万円の端末が一人一台、コンパイルリストは部屋内のプリンタから出るので、デバッグの時間も短縮…本当に恵まれていました。
しかし、安い給料は相変わらずでしたが、さらに幸いだったのは次長が会社と掛け合い、同じ部署のメンバー全員に、残業代がすべて出るようにしてくれたことでした。
そして、三年後に落ち着き、他の部署からのヘルプで、所属は本社のままで現場に出たのですが、給与の安さを再確認し辞めることを心に決めたときに、店頭登録をしたい会社から会計システムをスクラッチで作成したいので、そのリードとして来てくれないかというお誘いをいただいたのです。
しかも給与は年俸分と一定以上の作業時間を超えた場合の残業代ということで、報酬としては26歳の小僧としては恵まれたものになったのです。
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とまあ、ラッキーがあったのは間違いがありませんが、その前の三年間はそれこそ死に物狂いで安い給料でも仕事をしまくったわけです。
環境に恵まれていたこともあり、その部分にも幸運がありましたが、はっきりと自分で他の人よりもやったと言えるだけの仕事内容をしたと思っています。
また、否定する人もいますが、過労死してもおかしくないほどの残業をして、精神的にもタフになったおかげで、その後の独立期にあった大概のことに耐えられたのは、これらの経験があったのも要因の一つだと考えています。
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若い人たちに問いたいのは、そこまで本当にやってみた?というものです。
初任給七万円、最初のボーナスは小遣い程度、冬のボーナスも一ヶ月以下…と、私だって情けないくらいの生活をしていました。
しかしそこをはねのけたのは、運と努力があったからだと今だから言えるのです。
途中何度も自分が不遇ではないかと思ったこともありましたが、50歳を超えた今は山も谷も大きかったけれど、まあ普通よりいいのかな?と言えるキャリアになったと考えています。
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若者は可能性を山ほど持っています。
だから、愚痴る暇があったら、それを打開することをやってみろ!と言いたいのです。
やっと就職が売り手市場になり、これからが間違いなくチャンスです。
このチャンスを逃したら次はない!と思って死ぬほど…とはいかないまでも、転職を含めて自分の道を探してみてはいかがでしょうか。
私から言わせれば、若い人は私なんかよりもっと可能性を持っていると思うので、今こそ立て!とそう感じているのです。