マスコミは結局「対峙(対立)」しか考えていないのがよくわかる

週刊文春4月20日号の46-ページに「新聞不審」というコラムが掲載されている。

サブタイトルは「他紙ではなく権力と対峙すべき」とある。

なるほど、内容を読むと産経新聞のみが政府におもねり、他紙は対峙しているという書き方をしている。

しかし、マスコミは権力と対峙することだけがその使命なのか?というところを疑問に感じる。

三省堂 大辞林によると意味の二番目に「二つの勢力が向き合ったまま動かないでいること。」とある。

つまり「政府」という「権力」と、もう一方に「マスコミ」という「勢力」が向き合ったまま動かないでいることとなる。

国語的な意味を考えれば、これは全く不思議な光景であり、「向き合ったまま動かない」なんてのは愚の骨頂でしかないわけで、本来ここで申し述べたいのは、「権力と『対立する』」とでもしたいのだろう。

だが、マスコミは対峙(私は対立と読むが)するのがその仕事ではなく、こと政府に対しては「是是非非」で臨むのが当然であると考える。

意味は「一定の立場にとらわれず、よいことをよいとして賛成し、悪いことは悪いとして反対すること。」ということとなる。

なるほど、その意味で言えばマスコミは「一定の立場」・・・思想や主義・・・があるのだから、是是非非は違うのかもしれない。

ここで気が付いたのは、反日マスコミがなぜ政府と対立だけするのかと思ったら、「一定の立場」=「半日」というものがあるため、よいことは無視し、(都合の)悪いことのみ悪いとして反対するという構図がよくわかる。

米国で言えばCNNが保守系と対立しているわけで、とくにトランプ大統領に対しては徹底抗戦の構えであるが、日本の中途半端な反日マスコミはその姿勢を姑息にも隠しながらただただ政府のやることなすことに反対・・・というよりはケチをつけるのが仕事なのだろう。

それにしても日本の紙媒体の多くにこうした日本政府を認めようとしない人たちや会社が多いことに辟易するわけだが、70年以上も前の太平洋戦争の反省などといっているが、自分たちが大勢翼賛に賛成して国民をそちらの方向に導いた反省だから「逆」なんてのは愚かなことでしかない。

あくまでも人としても企業としても政府としてもどんな相手であろうと「是是非非」であるべき・・・おっと、残念ながら「まともな相手」というのを忘れていた・・・だと考えている。

まともでないものは、今ここに至っても共産主義的暴力革命を謳う政党、団体などであり、それを是とすることは私には絶対にできない。

宗教闘争(と言っている人たち)でもそうであるが、人を殺してでも自分の意見や意思を貫けというだけの教えであるのなら、それは自分の信ずる者に対してだけの好況にあるまじきものであるわけで、認めようはずもない。

つまりは「まとも」というのは「暴力的革命や闘争」をするのではなく、他者と論を闘わせ他者を是是非非の姿勢で臨むことこそ必要なのではないかと考える。

最初に戻るが、週刊文春の反日的言い回しである「対峙」であるが、権力を「敵」とみなすところからこそスタートしているように感じるわけで、そもそも権力とは公共のためにあることを忘れてはならない。

その権力が正しく使われているかどうかをチェックするのがそもそもマスコミの使命であるはずなのだが、結果として「対峙する」ことしか考えていないマスコミの姿勢は正しくないというのがよくわかるコラムだということになる。

だからといって産經新聞のみが正論を述べているのかと言えばそうではないと考えるわけだが、少なくとも反対だけを唱えるマスコミよりは少しましではないかと感じる。

ただし米国大好きという姿勢と、フジテレビのお隣大好きという姿勢については異論を述べるが・・