武漢発の新型コロナウイルスの影響について思ふこと

新型コロナウイルスが話題に上がったのが1月くらい、2月からは仕事場に車で行くことにし、3月からは出社停止による在宅勤務となったのですが、その影響がこれだけ長引くとはそれほど思ってはいませんでした。

夏くらいには収束に向かっていく方向なのだろうと思っていたら、このCOVID-19とやらは夏になっても衰える様子がなく、感染者は上昇傾向にあった3-4月と大差ない状況になっているようです。

それにしてもマスコミの報道と、政府の報告(役人、大臣を含め)、都道府県の長および地方役人の言動がダメだなあと思っている次第です。

2-5月に必要だったのは、感染拡大をしないために、家にこもってもらって一次的な爆発的感染拡大を防ぐことが重要で、そのために外に出ない、自粛生活を企業も含めて行ってもらうということをするべきであり、それに対しては一応の効果はあったと思っています。

そのため、当時は検査についても数の制限があったため、PCR検査をむやみに増やさず、我が子のようにかかっているようだが不明という場合には、PCR検査を受けさせるのではなく自宅療養をしてもらい、熱が4日続いたら保健所に行き指定の病院にてPCR検査を受診できるという権利を得ることについては止むを得ないと感じました。

これは娘が新型コロナに感染した(抗体検査にて明確になりました)ことで、それぞれの市区町村と病院の対処を知ることができたため、わかったことです。

しかし、現在は一定数のPCR検査の体制が整ったため、インフルエンザと同様、怪しければ検査を受ける体制ができてきたため、当時とは状況が異なっています。

さらに言えば、現在の感染者数が増えたように見えるのは、PCR検査の数が2-5月と比較して圧倒的に増えたために増加したように見えるだけで、当時の感染者数はその数倍であったのはこのところの30代以下の感染者数・・・つまりは感染をしていても無症状という人の数が増え且つ、重症者数と入院数が当時よりも少ないことでわかることです。

このところの感染者数増加に騒いでいる人は、その検査母数が違うのだということを理解して発言してほしいわけですが、残念ながら一定数が「わざと」そういう表現をしている人やマスコミがいることについて、非常に腹立たしく思っています。

はっきり書けば、思想的に何かを貶めようとしかしていないということに尽きるからです。

新型コロナにおいて怖いのは、まだワクチンも特効薬もないということです。

そして、変異型の新型コロナウイルスがあり、いろいろな耐性や感染力の変化が起きているということです。

また、結果的にどういうことが体内で起きるのかというのがわかりきっていないわけです。

そのため世界中でワクチンと薬の開発が行われているわけで、これらが揃うことでインフルエンザと同様程度に近い危険性になるのだと考えます。

その場合には「ある程度感染しても救う命が多い」ということとなるわけで、結果的に死者数はインフルエンザよりも減ることになると感じますが、現在のように薬がないから手立てがないというようなことにはならなくなり、「ある程度の」心配がなくなるということになります。

・・・で、最近気になっているのは「ワクチン反対派」が騒ぐことができなくなっています。

命にかかわる部分に対して、さすがに彼らも責任を持てないということなのだと思っています。

少しだけ脱線しますが、抗癌剤やその他のシビアな使用方法を言われる治療についても同様で、それで助かる命があるということを考えれば、一応に反対だけするというのは違っていると思うわけです。

with コロナと言われる世界で、すべきこと、していくことは何なのかというのは、世界での命題でもあり、個々人への命題でもあります。

政府に対して救えという言い方をする人がありますが、政府が救うことができるのは限られているわけで、自己で何をするのか、何ができるのかというのが本論となると考えています。

そのため10万円の一律支給については私は悪手であったと思っていますが、それで助けられたという方もいらっしゃるわけですから、頭から反対するものでもありません。

余裕がある方はその倍の消費を行うなどをしていたようで、私もそれに参加しました。

消費をすることによって世間にお金を回すことにより、経済を回すということを考えているわけで、そういうやりかたもあります。

しかし、そうではなく今困っている人がいるわけで、そこをどう救うのかというのが政府や自治体における命題だと考えます。

ただし財源が限られている中で行われることですし、なにより大企業の中でも内部留保の相当な取り崩しが行われてしまい、余裕がなくなってきた企業もみられます。

それらを含めてなにをするのか・・・の基本は個々人なのだと考えます。

生きるために何をするのか、もっと言ってしまえば「生き残る」ということはどうすることなのか、そういう基本を考える機会なのかもしれません。