研究者とリスクとリターンの関係

本年度のノーベル物理学賞に、赤崎勇氏、天野浩氏、中村修二氏が受賞した。

ここで取り上げたいのは「米国人」である中村修二氏について取り上げたい。

日亜化学との裁判は今でも覚えていて、日本企業の成功報酬に対して呆れたこともある。
青色発光ダイオードの発明に対して、会社が中村氏に与えたのは毎月の給与と、一時金の二万円だけだ。

それに対して正常なる対価を求めて中村氏は裁判に打って出た。
これに関しては私も賛成であるが、求めた対価が200億円超であったことに関しては驚きというか、金額として非常識だと感じた。

その理由は「研究をする場所と資金は誰が提供したのか」ということだ。

確かに成功した報酬として二万円は低すぎるが、かといって一人の力で200億円以上を稼ぎ出したかと言えば違う。
和解をした数億円というのにはある意味理解はできるが、その「宝くじ」を引き当てるには運と努力と金と場所が必要なのは言うまでもない。

こういう研究の比較をする時に必ずと言っていいほど「米国」というのが出てくるのだが、米国が全てにおいて優れているわけではない。

なぜなら成功した人だけが残っていき、それ以外は淘汰されるのが当たり前だからだ。

ベンチャーで立ち上げるには、資金を集める必要があるし、資金が足りなければ研究施設を提供してくれる会社や人を探さなくてはならない。
その意味において日本企業は自社の中に正社員として抱えておくために、成功までの「普通のサラリー」を支払い続けている。
研究者にとって、リスクが最も少ないのは日本企業も一つであると考える。

対し、米国では成功しなければその先がない。
研究することさえできず、一般企業で雇ってくれることもなく、成功しなければ大学にも雇ってもらえず、他の仕事を探すなどのことをしなければならなくなる。

中村氏は成功したからこそ言えることがある。

米国には夢があふれている、怒りが私の原動力だ・・・など、なるほど成功したからこそ言える事であって、日本よりもはるかに重い成功に対しての基準であったり、研究施設に入ることのたいへんさは中村氏には関係がなかったわけだから、その言葉が全てではないということを理系の研究者は考えなければならない。

ただし日本企業に対して思うのは、研究成果を出すための人達への「成功に対しての報酬」を見直すべきだと考える。

研究に対して金を出しているのは日本企業であるというのは理解できるが、特許に対しての・・・しかも重要な特許取得に対しての対価があまりにも低すぎ、中村氏のような研究者を今後も出し続けることになる。

そこまでに研究者に支払ったサラリーと、成功した時の利益をバランスよく見て、その成功報酬をきちんとするべきだろう。
そうしなければ日本の研究者は中村氏のように「米国人」として活躍することになるやもしれぬ。