「日々思ふこと」カテゴリーアーカイブ

好待遇転職サイトについて

SNSによく好待遇の転職サイトの紹介が出てくることがあります。

42歳1600万円とかみることがありますが、事実としてこういう転職があるのは認めます。

で、問題なのはそのSNSの書き込みに文句を書く方々。
・一部の限られた人だけじゃないか
・高学歴の人向け
・そのた罵詈雑言

はっきり書きますが、僻みですよね。

40歳を越えて、条件の良い企業に転職するのは容易いことではないと思います。

そして、それはそれまでに自分がどのように仕事をしてきたのか、生きてきたのかという勝負の瞬間でもあります。

高学歴???上等ですよね。
若いころ勉強を一生懸命にやった人が多いでしょうし、天才肌は少しの努力でたどり着いたかもしれませんが、皆さんその高学歴を得るための努力をしたのですから認められて当然です。

一部の限られた人だけ???当たり前ですよね。
誰もが高給を得られるはずがないのは、世の中見回してみたってわかるはずで、それまでの給与が低い人がいきなり好待遇の仕事に就くこと等できるはずがありません。

人の努力や才能、そして運を妬んでみてもなにもならないはずなのに、そんなところに便所の落書きをして憂さを晴らす程度しかできないなど、寂しい人生だと思いませんか?

自分の人生どうやって生きてきたのか、それが重要になってくる年代・・・例えば40歳以降とか・・・で、今までの自分の生き方などが数字で表れる瞬間があるとしたなら、こうした転職時の年俸にも表現されてくるわけです。

努力した人が報われる社会ってのはそういうことですよね。

違いますかねえ。

コストカッターは優秀な経営者なのか?

とまあ、タイトルに書いてみましたが、逮捕されたあの方のことです。

過去の別ブログに書いてありましたが、あれだけ取引先を泣かしてコストカットして、V字回復もなにもあるか!とやったことがあるのですが、その神話が逮捕によって崩れようとしています。

私は経営者が優秀であれば、それなりに大きな金額をもらってもいいと思っています。

ただし常識的な範囲で・・・
(某黄色い会社で年に100億円以上も払っていましたが)

私が考える大手企業というのは、当然ながら取引先も多くあるのですから、そういう会社も含めて潤わせて自分の会社も潤って初めて優秀な経営者がいるのだと思っています。

特に日本を代表するような企業では当然のことで、それは域内の経済を回してこその大企業ですから、自分たちだけってのは日本を代表するような企業じゃないと思うわけです。

当然この考え方は違うよという方はいるでしょうが、少なくとも私はそう考えるわけです。

その意味であの方はどうだったかといえば、工場閉鎖も、下請けの見直しも、コスト削減も、言ってみればやりやすいことをやって、V字回復って当たり前のことをしたわけです。

その後、それらがようやく落ち着いて利益が還元される状態になって初めて企業再生が完了するわけですが、彼がやったのはコストカットでしかありませんから、賢い方で権力さえ与えられればある意味誰だってできるわけです。

それが外国人だったからこそ(まして親会社からですので)ある意味恨まれないで進められた(陰口は相当たたかれたでしょうが)部分もあるため、今までは大事にならなかったのだろうと考えられます。

それにしても陰謀論がまたしても出ているわけですが、タイミング的に政府の実質移民政策と被ったことに関しては感じる部分がありますが、日産のクーデターというのは当てはまらないでしょう。

なにせ有価証券報告書にからんだできごとですから、これから先「いやあれは正しかったんです」なんてのを日産がリリースするようなことはあり得ないわけで、やはり会計上彼らは「やりやがった」ということで、日産のクーデターというのは当てはまらないでしょう。

ただし、ルノーというか彼は日産を完全にコントロールするための算段をとろうとしていたわけですが、日産側はそれらを否定していたことが報じられています。

持ち株会社にして・・・合弁で・・・みたいなことになれば、事実上ルノーが日産のすべてを仕切ることになるわけで、今以上にルノーサイドの影響が大きく出てしまう可能性があったわけです。

それらをこの事件で否定できることについては、日産はやりやがったなという感じにはなります。

果たして結末はどこになるのか全く見えないわけですが、日産は日本を代表する企業として恥ずかしくない活動をしていただきたいと切に願うのみです。

自分らしさってなに?

いわゆる自分らしさとか、個性とかよく言われるのですが、それってどうしても必要なのか???とついつい考えてしまいます。

他人から見た「その人の個性」というものと、自分の中にある「自分らしさ」というのは乖離していることが多く、よくあるパターンとしては個性がはっきりしていて自覚していたとしても、他人からは認められていない場合があったりします。

また逆に本人は全く自分らしさを主張をしてもおらず自分の中で普通にしていたとしても、他人からは「個性の人」みたいに見られることもよくあるわけです。

ちなみに私は後者であったのですが、30代を過ぎてから自分でもその個性を意識して、そこを伸ばす方向で活動するようにしています。

まあそのため、合うところと合わないところがあったりしますが・・・(苦笑)

今の私を知っている人は信じられないことでしょうが、私は子供のころ主張が苦手でしたし、転校続きで友達は離れていくものだとあきらめていた部分があり、さらにはいじめもあって人を信用しないところがありました。

そのため自分らしさを出しても意味がないと思っていた節があり、目立たないようにしていた「つもり」(本人はそうだったのですから)だったのです。

私の自分らしさは「一見社交的(実は全然違いますが)」「一見オープンで明るい(明るいのは認めますが、意外にドメスティック)」というのが大きく、そこに自らの主張を交えていくわけです。

それが社会活動や仕事の中において他者から評価されるようになり、現在に至っているわけですがこれは本当にありがたいことだと感じているのです。

多くの人は自分の主張をしてみても、Twitterでつぶやく程度のことにしかならないなんてのは往々にしてあるわけです。

たとえ小さなコミュニティ(といっても小P連の時は対象が8万人以上)であっても、自分の言葉が他者に伝わることはありがたいことなのだと思うのです。

そして自分らしさがその場で活躍することができれば、自己欲求を満たすことになる(と知ったのはそうなってからですが)ため、もっと何か役に立つことをしたいとか、社会でこう活躍したいなどということができるようになってくるわけで、それが成功につながるのだと考えます。

ちなみに本気で私は目立つ方ではないと思っていましたが、それが勘違いであるとしったのは二つ目の会社に所属したときであって、実は学生のころには全く考えもしないことでした。

そのため自分は目立たない地味な存在と思っていたため、自分の好きなことしかしていなかったことがあります。

とくに高校の同期の仲間はそういう部分しか見ていなかったため、私が社会人になってから社会活動などを行うことに「あいつが他人のためになにかをするわけがない」という評価をされていました。

しかし、同窓会などで何十年ぶりかで会って、それが全く違う私と出会ったときにありがたいことに感じてもらえることがあるようで、それが今の私にとってはその頃の反省も含んで同期や同窓に対して「何かをしたい」と思う原動力になっています。

君は生き残ることができるか(永井さん風)

そろそろ私の年代もキャリアエンドが見えてきているわけですが、人生100年時代と言われてきていて、残りが30年以上なんて人もでてくるわけです。

しかしながら65歳くらいにはその人の仕事についてのキャリアの最終というのが見えてくるわけで、そう考えると自分にとってはあと10年ほどしかないということになります。

と言ってみても、23歳になる年齢で社会人としてサラリーマンになり、そこから考えれば43年程度となるわけですから、100歳では半分以下、80歳でようやく半分程度やったということになります。

現在の健康年齢で考えてみると80歳ですから、その数字で見てみましょう。

65歳で仕事に区切りをつけ定年を受け入れたとしましょう。

80歳までの残りは15年ということになります。

それまでただ遊んで暮らせる人というのはかなり少なくなってきていると思います。

私たちの親の世代であれば年金であったり、貯蓄などの切り崩しで働かずに食べている人を見ますが、私たちの年代ではそこまでの生活ができる人はごくごく一握りに過ぎないでしょう。

その理由の一つとしては年金額の低額化ということになりますが、社会人人生の1/4しか厚生年金に入っていない私などは、国民年金にちょっとだけ足される程度ですから、それだけで食べていくのはそうとうきついことになります。

ではどうするのかといえば、拙宅では貯蓄だけではなく投資というところにも手を伸ばしています。

しかし、そこで死ぬまでのお金を得たとしても、実は私は働くのだろう・・・それは今のように懸命に結果を残すための仕事ではなく、人生の集大成としてのライフワークを行うのだろうと考えています。

具体的にはサッカースクールやクラブ運営などですし、お金にはあまりならなくとも東京都や区のレフェリーインストラクターの微々たる収入もあります。

まあ、インストラクターは有償ボランティアでしかありませんが、趣味でお金をもらえることほどいいことはありませんから、それはそれでよしとしましょう。

・・・と、少し話題がそれましたが、私たちの世代が生き残っていくためには、年金だけではなく(年金も支給年齢が上がるでしょうし)、必ずそれ以外にお金を得られる手段を用意しておく必要があります。

先日、転職についてのご説明をうけた企業がありましたが、そちらは401kにも対応されているようで、今私のやっているものを引き継ぐことも当然できますと言っていただきました。

こういうところでも知っている人と知らない人では差が出てきます。

生き残るために、何が有用であるのかを判断し、自分や家族が永らえるための準備をきちんとしておかなくてはならないでしょう。

議論をするということ

異なる意見の人と議論をするということは良いことだと思っています。

ただし、質の良い議論をしたいというのが当たり前のことになりますので、以下の点に注意しています。

  • 言葉遣い
  • 調査(リサーチ)
  • 裏付け(コラテラル)
  • 証憑(エビデンス)

言葉遣いは社会人として当たり前のことで、最初から「おまえ」だの「あんた」だのという言葉を使えば、相手は当然ながら話す気さえ失せてしまうことがあります。

ちなみに私はこうした人が大嫌いでして、これを書かれるとかなり冷たいあしらいになります。

せっかくまともな議論をしている人に対して「おまえさー」などとやられたら、とてもではありませんが萎えます(笑)

そのため自分ではそうしないように気を付けていますが、しつこい人などに対しては「おまえが馬鹿なのはわかった」などと突き放します。

それから自分が反対する政治家や人物について呼び捨てにする、カタカナ表記にするなどの人はやはり冷たいあしらいになります。

私は例え嫌いな政治家であれ「一応」「氏」とか「さん」とつけるようにしています。

まして一国の宰相(さらに言えば日本国の首相)を呼び捨てなど言語道断だと思っていますので、議論の際には言葉遣いをきちんとするべきだと考えています。

調査ですが、議論をするための最低限の知識というのが求められるはずなのですが、最近のTwitter民の中には「教えろ」とくる人がいます。

まずそうきた場合には、私の中で「無知」というフラグが立ちますので、ほとんどが冷たいあしらいになります。

はっきり「パヨク」と書きますが、彼らには道理であったり常識が通用しません。

彼らは常に自分が正しく、社会正義に満ち溢れ、人のことを考えており、賢いと勘違いをしています。

ディベートの基本は自分の意見が正しいというところからスタートするものですが、それが正しいのかを実生活の中では振り返る必要があります。

しかしながら、彼らは自分が正しいですから相手の意見を崩すことしか考えていません。

もう一点、幼稚です。

「〇〇とはいつ言ったか?」など文脈を無視してわめき始めることがあります。

それなのに相手に対しては「おまえはこう言っただろう」と勝手に相手の考えを決めつけてしまうことが多々あります。

ステレオタイプという言葉がありますが、大多数のこうした人々に見事なまでにあてはまるため、最初から決めつけはしませんが、途中で「パヨク」フラグが立つのは普通のことになってしまいました。

さて、話す内容の調査ができて方向が決まったからといって、そこですぐに感情に任せて発言をしてはいけません。

裏付け作業が必要になります。

そのためには証憑(エビデンス)が必要であり、法律であったり、発言であったり、それぞれの議論に対して必要な情報を集め、話の方向に対しての裏付け作業が必要になります。

Twitterでよく見る正しい人は、きちんとエビデンスをつけて「いついつこういう発言があったがどういうことか」と質問をします。

それは当然ながらわかりやすいものですから、相手に対して証拠能力を持った問いかけということになります。

で、パヨクの皆さんというのはそこらへんをすべて吹っ飛ばします。

法律の成り立ちを無視し、物事の順序を無視し、社会規範を無視しても自分の「想い」が通ると思っています。

そのため当然ながら裏付けも、それにかかる証憑もでてこない状態で、ただただ「想いの話をする」(議論ではない)のみとなるため、議論にならなくなってしまうのです。

先日も消費増税について、そもそも民主党政権時に成立をさせ、金融庁が書いた図に従っているというのに、消費増税をしないためにアベなら強行採決をしてなんとでもなるなどという、「とんでも」な発言をする人がつっかかってきました。

スタートが金融庁の法律に対して、その法律の廃止案を金融庁がそうやすやすと書くものではありません。

政治家はこうしたところを官僚に頼らざるを得ないため、決めた法律を廃止するためには相当な努力が必要となります。

しかしながら消費増税については、過去二回の延長があるため、金融庁が納得して廃止案を書くなどとは考えにくいのは当然のことなのですが「できないことはない」と想いだけで綴ってくるわけです。

頭の中では「アホか」と浮かんできて(しかも法律施行について教えろときて、後出しで難しいといいはじめる)議論は無理と断りましたが、その後「知らないのか」などとリプライしてきましたが、完全無視しました。

それらの理由は上にすべて書いてありますが、議論に値しないからです。

例え反対意見であっても、正しいものをぶつけ合うのであれば議論として成り立ちます。

それができないから議論できないと打ち切らざるを得ないという残念な結果となるわけです。

きちんとした議論をしたいものです。