「日々思ふこと」カテゴリーアーカイブ

細かいことが気になる^^;

なんで満員電車のドア付近で、降りないで頑張っちゃう人がいるんだろう。

なんで満員電車だというのに、ゲームに必死で自分の手の置き場を相手を押してでも確保しようとする人がいるんだろう。

なんで満員電車だというのに、デイバックなどを背中にしょったまま他人の迷惑を気にせずグイグイ押してくる人がいるんだろう。

なんで満員電車だというのに、自分のバッグがずれるのを気にして蹴ってでも場所を確保する人がいるんだろう。

なんで満員電車だというのに、他人の背中に雑誌や携帯を当てて読んでも気にしない人がいるんだろう。

ほんの少し周りの人を思いやればトラブルにもならないでしょうに、自分だけということがこういうつまらないことになってしまう。

ほんの少し、ほんの少し・・・それだけでいいのにね。

3月10日に思ふこと

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昭和20年3月10日0時7分、東京で空襲が始まった。

実に300機以上もの戦闘機が、東京に雨あられのような焼夷弾を降り注いだ。

そして8万人以上の直接の死者を出した・・・

今では、たった一回の民間人への誤爆で大問題となるのに、民間人をターゲットにした虐殺であるにもかかわらず、米国は謝ることさえしない。

それは数十万人を虐殺した、広島と長崎における原子爆弾投下に対しても、自分たちは正義だという名の下に正当化されている。

何年前だったろうか、エノラゲイの搭乗員だったかがテレビ朝日のニュースワイドに出て、リメンバーパールハーバーなる言葉で日本人に対しての差別的な発言を続けたが、彼らはこうした大量虐殺に対して正義を前面に出して反省する様子はない。

これらを繰り返してはならないのは当たり前で、それを阻止するためにはどうするか、意見は分かれてしまうのはやむを得ない。

勝つことのできる国を作る?なんてのは私は理解できない。

他国に勝っても負けてもそれぞれ遺恨は残るからだ。

だが、負けない国にするという備えは必要だと考えている。

いわゆる中国の軍拡に対してアライアンスを組んで守ることも必要であるし、自国の防衛をするのも当然のことと考える。

日本国民の中に「殺させない」という言葉で防衛などに対する軍備に対して反論を述べるものがいるが、それ以前に「殺されない」という予防をして初めて「人を殺す場所にさせない」ということができるのだと申し上げたい。

今の連合国による統治への協力にしても、日本は戦闘地域ではなくなったところに行っている。

私はそれでいいと思っているし、それが国際貢献の一つであると考える。

だからこそ米国との対等同盟を理解し、集団的自衛権を認める必要がある。

ただし、米国は虐殺の歴史を持っている国であるし、今のシリアの前の湾岸戦争時においても、彼らのいう正義はあたらないと感じているので、彼らが「一緒に攻め込もうぜ」というのにはきっぱりNoをつきつけ、しかし彼らが日本近海等において日本にも敵国にあたるであろう国家に無条件に攻撃された場合には助けるために動くということをし、まずは「殺させない」を徹底するべきだと考える。

憲法第九条が日本を守ってきたわけではない。

米国に保護されてきたから戦いにでる必要がなかっただけの話だ。

米軍基地がなかったとしたなら、米国の守りがなかったとしたなら、日本は日本たることはなかったと考える。

個人的には自主防衛ができなければならないと考えているが、残念ながら戦後70年を過ぎてもその議論さえさせないようにしようという情けない人たちがいる。

自分の身は自分で守るのが普通だし、それが当たり前であると思う。

一日も早く、日本が普通の国として成り立つよう、みんなが議論をし行動をするべきだと思う。

3月11日と10日のエントリーを逆にしてみたのは、わざとです。

3月10日という私が生まれる前にあったことも、私が5年前に経験したこともどちらも重要でかつ残念なことです。

3月11日が近づいてきました(4)

3月11日が近づいてきました(3)からの続きです。

朝は10時頃まで寝ていました。

昨夜使ったガソリンは普段たった30分の距離で1/4程度でしたので、あの渋滞はどれほど無駄な消費だったのかと思いますが、妻の女性が多い職場の自宅への期間を考えれば仕方がなかったと思っています。

そして、土曜日でしたがサッカースクールも地震の影響でお休みすることとし、布団の上でうだうだやっていたところ、携帯電話がなりました。

電話の主は私の弟です。

「兄貴・・・今日暇?(笑)」

「いやあ、暇っちゃ暇だけれどどうした?」

と、理由を聞いてみると仕事場の大田区から自宅のある八千代台まで帰ろうと思ったのだが電車が止まってしまったこと、止まった場所が我が家の最寄駅である青砥であること、そして電車の運行復旧の見込みがないことで要は家まで送ってほしいとのことだった。

まあ時間がありあまる状況でしたし、子供たちには母親がいるしということで、男二人でドライブがてら葛飾から八千代市まで走ったのです。

考えてみれば弟と二人で二時間以上サシで話すこともなかったため新鮮な時間を味わいました。

昨日のすさまじい混雑よりはましになったとはいえ、やはり市川橋は混んでいました。

昨夜はこんなものではなかったというと、彼は仕事場で泊まったことなどを話してくれました。

空港では動けなくなった人が大勢いて一晩を過ごしたこと、仕事場で結局安全のために泊まったことなど、いろいろと聞くことができました。

ワンセグをつけながら車を走らせていましたが、あの津波には二人とも声はでませんでした。

今自分が生きていること、生かせてもらっていること、そういうものが半世紀近く生きているとわかってくるのですが、震災で若い命が多くなくなってしまったことなどなど、そういう話もしながら彼の自宅に向かっていました。

そういえば、彼の子供は二人とも都内の学校に通っていて、一人は我が家の近くだったのでもし動くことができなければ我が家に迎えようと思っていたのですが、早い時間に既に自宅にいたことがわかりことなきを得ました。

もう一人は高校生の男子でしたので、工藤家の男子ならなんとでも生き残れと思っていたので放置でしたが(笑)

そんなこんなで彼の家についたところ、ほっとした顔の彼の奥さんの顔を見ることができ、うれしかったことを覚えています。

こちらもいつもは60分かからないところを二時間半ほどかかりましたので、まだ混雑している状況でしたが初日よりははるかにましという感じでしたでしょうか。

帰りはもう少し時間がかからなかったことを覚えています。

それからの一週間はたいへんでした。

福島第一原子力発電所の事故が起こり、まず飲み水確保と思い実家にペットボトルをケースで送ってもらったりしたのですが、買った翌日に売り切れてしまっているなんてこともありましたし、近くのコンビニエンスストアやスーパーマーケットではミネラルウオーターがすべて売り切れていました。

拙宅には事故の二日後には届いていて、近所の赤ちゃんのいる家庭にも数本程度は分けられる状況でしたので、ミルク用にと軟水であるミネラルウオーターを持って行ったこともありました。

ガソリンもスタンドには大行列ができていましたが、私は二日目までに半分と少しガソリンがタンクに残っていた状態で、気持ちに余裕がありましたし、もし何か福島でそれ以上の事故があった場合にまずは西に避難するだけのガソリンは残しておこうと思っていたので心は余裕がありました。

それと父が原子力の研究者であったことも幸いしました。

私も理系でしたがそれ以上に専門家である父の言葉は孫を心配する祖父であり、正確な情報と知識で千葉や東京の危険度を測っていたようです。

余談ですが後に私が「泊原発ってのは立地としてよくできたところにあるもんだね」と話をしたところ、札幌から遠すぎずも札幌に影響を与えにくい場所ということで選んだ土地だと知り納得をしました。

福島第一の事故でそれまでの理系の知識をフル稼働した上に、さらに学んで知恵をつけ、父からのアドバイスを受けたおかげで、冷静に東京の事故後を考え、発言することができたのはこういうことがあったからです。

その後、子供を守る活動だけに専念するため「東京連合こども守る会」に仲間で参加をしたり「守る会@葛飾(葛飾区の子供達を放射能の被害から守る会)」などというので活動をし、ニュースで紹介されたこともありました。

今でもそのころのことは鮮明に覚えていますが、あれほど真剣に動いたのはPTA以来だったでしょうか。

震災から明日で5年が経とうとしています。

被害の大きかったところではまだ復興とは言えない状況ですが、各個人がそれぞれ考え、動き、努力することで必ず解決できることだと思っています。

支援だけが必要ではなく、人の心の問題で合ったりもしますが、自分を信じて復興をめざしていきましょう。

3月11日が近づいてきました(3)

3月11日が近づいてきました(2)からの続きです。

船橋を過ぎたあたりから車がそろそろとしか動かなくなってしまいました。

すでに時間は18時を越えている状態で、いつもの30分コースなど夢のようです。

津田沼まであとどれくらいかかるかさえ分からないような状況になってきました。

相変わらず電話やメールはたまにしかつながらない状況で、携帯のディスプレイには「混雑しています」と表示されるだけでした。

札幌の実家からは一度連絡が入りましたし、練馬の義父母とも連絡はついていたので、余計な連絡はしないようにと考えていたので、携帯を使わないようにしていました。
(緊急の電話がつながらないのは、こうしたパニック時になるとわかるなあと思った次第です)

船橋から一時間をかけて津田沼の駅の近くまでつきました。

しかしそこからなんと駅前までの1kmあまりが30分かかったのです。

そして家から2時間半ほどでようやく津田沼についたのです。

仕事場に電話をしようとしても「混雑しています」の表示が出ているため、子供を使いに出しました。

そして10分ほどしてから妻の仕事場のメンバーがビルから顔をだしてきたのです。

「お腹すいたねー」ということで、ビルの一階にあったコンビニに入ったのですが、全く主食となるような食べ物はなく、お菓子がいくつか残っていたので、それをみんなで購入して食べようということになりました。

仕事場のメンバーは西船橋と行徳方面ということでしたし、千葉方面の方は変えることが無理なので、西船橋の方の家に泊まることになったそうなので、車は今来た道を戻り始めます。

この時で20時半くらいでしたが、ここから帰宅までの時間がすさまじかったのです・・・

まずは西船橋ということで、津田沼駅の北側を抜けてから14号を目指します。

車は渋滞がずっとつづいている状態で、上りの方がましなの?というくらい動きません。

下り車線の車両は先ほどよりも動いていないような感じで、これから下り方向に帰っていく人たちにとっては、どれほどの時間がかかるのだろうかと感じたほどです。

・・・と言いながらも、じゃあ上りはどうなんだと考えてみても、上り方向も来た時より混雑しているような感じに思ったのは間違いがありません。

14号にでようと思ったのですが、そちら方向は混んでいるのははっきりしていましたし、細い住宅街の入り口の道路から車があふれている状態で、入ることができないので、そのまま船橋までの道をまっすぐ進まざるを得ません。

車の中には飲料がなかったため(車に乗る前に買ったものは三人ですでに飲みつくしていました)、途中まだ売っている自動販売機を見つけると、車から降りて買ってくるような状況でした。

車から離れてもほとんど車は動かないため、十分に買い物ができる時間がありましたが、トイレだけは車が数百メートル進んでいて、走って追いかけてくるということもありました。

車の中は8人いましたのでいろいろと話ができ(私以外は女性です)その後話をしたときには「あの時一人じゃなくて心強かった」と言っていたので、人との会話がどれだけ大切なものなのか感じました。

さて船橋の陸橋を渡るときにたいへんなことが起きます。

時間は22時前になっていたので、すでに二時間近く経っていましたが、歩道を横切って幹線にでようとしたところ、下り方向の人の波で車を進めることができないのです。

聞いてみると仕事を終わらせて、東京駅の近くからひたすら歩いてきた人などがおり、とにかく帰るのだということでまだここから10kmほど歩かなければならないような人とも話をしました。

外は3月とはいえ冷えてきていますし、この時にワンボックスの車を持っていてよかったと思いました。
(おかげで今もサッカーの関係もありますが、ワンボックスにしているのは緊急時に役立つからです。燃費はアレですが^^;)

そしてその陸橋から西船橋までが1時間半近くかかり、20時過ぎに津田沼を出て23時半に西船橋という、普段は15分もあればつくようなルートで、これだけの時間がかかってしまったのです。

途中、船橋競馬場のそばを通った時、地面から水道管が破裂したのか水が噴き出ていたり、谷津のあたりでは停電のため信号機が動かず、また街灯もついていないため、真っ暗な中道路を突っ切ったら左から車が飛び出てくるなどというヒヤッとした瞬間もありましたが、なんとか西船橋で三人を下すことができたのです。

そのあと行徳方向に向かいましたが、こちらも混んでいて着いたのは0時半くらいでしたが、この頃から上り方向の車は「まだ」ましになったと感じました。

家族だけになり、市川の江戸川沿いを走っていると、コンビニエンスストアをみつけました。

子供たちの「お腹へったー」の声もありましたが、私たち大人もお腹がすいていたのでなにかないかと思って入ったところ、その近くの住人の方は大人なのか食料を買いあさることもなく、カップ麺が残っていたのです。
(おにぎりなどは売り切れでした)

お菓子も少し残っていたのでお菓子を少しと、カップ麺を二つ買い車の中で食べ、少しだけお腹を満たして家に向かいました。

そこから鹿骨街道などを通り小岩を抜け、葛飾の自宅に戻ってきたのは2時半となっていました。

余震は続いていたので寝る時に考えたのは以下のことです。
・靴下を履いて寝る
・ベランダの鍵をかけず、ベランダにも靴を出しておく
・テレビは光量を落としてつけたまま寝る(夜中じゅう地震情報が流れていました)
・子供たちと寄り添って寝る(一日不安でしたでしょうから、安心させるためです)

それまで地震があったって、二軒隣が火事だって起きなかった私が、ちょっとした地震で起きるようになっていました。

それは家族を守ろうと思うからで、一番最初に目覚めすぐに動くことができる体制をとるという、180度変わった目覚めを体験しました(苦笑)

それまでの9時間くらい、ものすごく緊張していたはずなので、神経が疲れていましたが家族を守ろうと考えると眠りが浅くなっていたように思います。

こうして長かった一日が終わり、うとうとしたのは4時近くになっていました。

(4)につづく

3月11日が近づいてきました(2)

3月11日が近づいてきました(1)からの続きです。

文京区のお客様に作業終了の許可をいただき、自転車で自宅のある葛飾区へ向かいました。

途中、あちらこちらで交通渋滞が起き始め、自転車で動いている自分の幸運を感じたのです。

およそ40分の道のりでしたが、街は混乱前の静けさのような感じで、ところどころで止まっている車の影響か少しの渋滞ができている程度で、大きな混乱は見られていませんでした。

下の子が放課後の学校開放事業で遊んでいることもあり、小学校へ真っ先に向かいました。
前年まで会長をさせていただいていたこともあり、先生たちと学校内の状況を確認し、下の子の所在を尋ねると上の子が迎えに来たとのことで一安心。

学校に残っていた子供たちは50人ほどで、共働きなどで家に人がいない可能性のある子供ということで、最悪学校で安全が確認できるまで預かってくれるとのことで、何かあったら連絡をしますと校長先生と確認をしてまた自転車で自宅へと向かいました。

自宅では子供たちが二人で私の帰りを待っていました。

家の中は幸いにも大きな被害はなく、金魚の水槽から半分くらいの水がこぼれていたくらいで、食器も家具もほぼ問題がありませんでした。

さて、家族三人がそろいテレビを見ているのが16時頃でした。
関東圏の電車はほぼ止まっており、当時の妻が津田沼で仕事をしていたこともあり、もしかしたら帰ってこられないかもしれないと感じ始めたのです。

そこで考えた末、車にまずはガソリンを満タンにしようと考え、ガソリンスタンドにむかいます。

子供たちを家に置いておくと不安だろうと、一緒にガソリンスタンドに行くか?と聞くと当たり前に行く!と答えが帰ってきました。

考えてみればこれがその後二週間、我が家の安心につながりました。

いつものガソリンスタンドに付き、ガソリンをタンクいっぱいに入れます。

この時、まだ少しの行列もできておらず、その後のニュースで見る行列をみて幸運を感じるのです。

その間ラジオを聞きながら移動を続けましたが、直感的に今日は電車が動かないと判断し、妻に迎えに行くとメールをしました。

この時、すべての携帯キャリアで通話、メール、インターネットがつながりにくい状況で、電話をしても全くつながりません。

電話でつながったのはこの時まで札幌の実家から自宅にかかってきて子供が取った電話と、一瞬かかったか?と思った妻への電話だけでした。

メールも受信しない状況で、送信も込み合っていると表示されますが、しつこく送っているとやっと17時過ぎに送ることができました。

そこから葛飾区青戸から津田沼駅までの「長旅」が始まりました。

普通なら環状七号から京葉道路を通っていくため30分ほどで到着するのですが、地震のため京葉道路は通行止めとなっており(地震の際、幹線や自動車専用道、高速道路は通れなくなるのがわかっていました)、また環状七号も混雑していたために裏道をひたすら行きます。

この時に参考として千葉の友人と連絡が偶然とれ、東京から千葉街道で千葉へ移動した時間と比較するとすさまじい移動距離の違いがわかっています。

私は環七を渡り、鹿骨街道手前の住宅街をひたすら南に走って14号の市川橋を目指します。

ところどころで14号に出そうな道に出るのですが、目の前は大渋滞のひろがる14号ですので幹線にはでられません。

そのため14号の手前で東側に向かい、京成江戸川の駅側から14号に出ることとしました。

それでも市川橋にたどり着いたのは17時過ぎとなっていました。

市川橋をまたのろのろと車で通過し、渡ってからもそのまま14号を進むのではなく、左にそれ矢切方向に一度向かってから京成線の線路沿いの住宅街の中をひたすら東に進むようにしました。

この時友人は江東区周辺から千葉に向かっていたのですが、全くと言っていいほど千葉街道は動かず、16時過ぎに亀戸近くを出て18時頃に市川橋を渡ったそうですから、裏道の方が圧倒的に速いことがわかります。

しかし、この裏道も幹線に出る部分では混雑しているため、そこでの我慢は必要となります。

私は今もですが車にナビゲーションシステムをつけておらず、走る道を記憶するようにしていたのと、方向を間違わずに走ることができるというのが幸いし、住宅街の少し太い道をひたすら津田沼に向かって走ります。

いつもであれば通ることができる道が混雑しているというのがこれほど大変なのかと感じましたし、運転者のストレスは頂点に達していた状態で、たまに路肩で喧嘩をしている姿も見かけました。

そうこうしている間に、八幡を過ぎたあたりで携帯に妻からのメールが入ります。

「JRが動かないので帰ることができない。いつ動くかもわからない。迎えに来てくれるということで助かる。こちらにも帰ることができない人がいるので、一緒に乗せてほしい。」というものでした。

ことごとく勘が当たっている状況にあとで気が付くわけですが、その時はただただ妻を迎えに行くとしか考えていませんでした。

ところがこれも正解だったということに気が付くことになります。

つづきは(3)に。

3月11日が近づいてきました(3)