3月11日が近づいてきました(2)

3月11日が近づいてきました(1)からの続きです。

文京区のお客様に作業終了の許可をいただき、自転車で自宅のある葛飾区へ向かいました。

途中、あちらこちらで交通渋滞が起き始め、自転車で動いている自分の幸運を感じたのです。

およそ40分の道のりでしたが、街は混乱前の静けさのような感じで、ところどころで止まっている車の影響か少しの渋滞ができている程度で、大きな混乱は見られていませんでした。

下の子が放課後の学校開放事業で遊んでいることもあり、小学校へ真っ先に向かいました。
前年まで会長をさせていただいていたこともあり、先生たちと学校内の状況を確認し、下の子の所在を尋ねると上の子が迎えに来たとのことで一安心。

学校に残っていた子供たちは50人ほどで、共働きなどで家に人がいない可能性のある子供ということで、最悪学校で安全が確認できるまで預かってくれるとのことで、何かあったら連絡をしますと校長先生と確認をしてまた自転車で自宅へと向かいました。

自宅では子供たちが二人で私の帰りを待っていました。

家の中は幸いにも大きな被害はなく、金魚の水槽から半分くらいの水がこぼれていたくらいで、食器も家具もほぼ問題がありませんでした。

さて、家族三人がそろいテレビを見ているのが16時頃でした。
関東圏の電車はほぼ止まっており、当時の妻が津田沼で仕事をしていたこともあり、もしかしたら帰ってこられないかもしれないと感じ始めたのです。

そこで考えた末、車にまずはガソリンを満タンにしようと考え、ガソリンスタンドにむかいます。

子供たちを家に置いておくと不安だろうと、一緒にガソリンスタンドに行くか?と聞くと当たり前に行く!と答えが帰ってきました。

考えてみればこれがその後二週間、我が家の安心につながりました。

いつものガソリンスタンドに付き、ガソリンをタンクいっぱいに入れます。

この時、まだ少しの行列もできておらず、その後のニュースで見る行列をみて幸運を感じるのです。

その間ラジオを聞きながら移動を続けましたが、直感的に今日は電車が動かないと判断し、妻に迎えに行くとメールをしました。

この時、すべての携帯キャリアで通話、メール、インターネットがつながりにくい状況で、電話をしても全くつながりません。

電話でつながったのはこの時まで札幌の実家から自宅にかかってきて子供が取った電話と、一瞬かかったか?と思った妻への電話だけでした。

メールも受信しない状況で、送信も込み合っていると表示されますが、しつこく送っているとやっと17時過ぎに送ることができました。

そこから葛飾区青戸から津田沼駅までの「長旅」が始まりました。

普通なら環状七号から京葉道路を通っていくため30分ほどで到着するのですが、地震のため京葉道路は通行止めとなっており(地震の際、幹線や自動車専用道、高速道路は通れなくなるのがわかっていました)、また環状七号も混雑していたために裏道をひたすら行きます。

この時に参考として千葉の友人と連絡が偶然とれ、東京から千葉街道で千葉へ移動した時間と比較するとすさまじい移動距離の違いがわかっています。

私は環七を渡り、鹿骨街道手前の住宅街をひたすら南に走って14号の市川橋を目指します。

ところどころで14号に出そうな道に出るのですが、目の前は大渋滞のひろがる14号ですので幹線にはでられません。

そのため14号の手前で東側に向かい、京成江戸川の駅側から14号に出ることとしました。

それでも市川橋にたどり着いたのは17時過ぎとなっていました。

市川橋をまたのろのろと車で通過し、渡ってからもそのまま14号を進むのではなく、左にそれ矢切方向に一度向かってから京成線の線路沿いの住宅街の中をひたすら東に進むようにしました。

この時友人は江東区周辺から千葉に向かっていたのですが、全くと言っていいほど千葉街道は動かず、16時過ぎに亀戸近くを出て18時頃に市川橋を渡ったそうですから、裏道の方が圧倒的に速いことがわかります。

しかし、この裏道も幹線に出る部分では混雑しているため、そこでの我慢は必要となります。

私は今もですが車にナビゲーションシステムをつけておらず、走る道を記憶するようにしていたのと、方向を間違わずに走ることができるというのが幸いし、住宅街の少し太い道をひたすら津田沼に向かって走ります。

いつもであれば通ることができる道が混雑しているというのがこれほど大変なのかと感じましたし、運転者のストレスは頂点に達していた状態で、たまに路肩で喧嘩をしている姿も見かけました。

そうこうしている間に、八幡を過ぎたあたりで携帯に妻からのメールが入ります。

「JRが動かないので帰ることができない。いつ動くかもわからない。迎えに来てくれるということで助かる。こちらにも帰ることができない人がいるので、一緒に乗せてほしい。」というものでした。

ことごとく勘が当たっている状況にあとで気が付くわけですが、その時はただただ妻を迎えに行くとしか考えていませんでした。

ところがこれも正解だったということに気が付くことになります。

つづきは(3)に。

3月11日が近づいてきました(3)