自分が還暦という節目を超えてしまい、ある意味おまけの人生を歩ませていただいている。
その昔、私が若かったころに父と話をしていて、父が「60歳以降の人生はおまけで、そのあとはいつ死んでもいい」と言っていたのをきいて、全く同じ考えだと思ったわけだ。
しかし、父が66歳の時に末期の癌となったときに、その一年前から体調がすぐれないのをわかっていて放置して末期癌だったために、人生で一回だけ父を叱ったことがある。
「親父がどう死んでいこうとそれは好きにしろと思うが、少なくとも40年近く一緒に生きてきたおふくろを無視して、自分勝手に死ぬことは彼女の人生を無視することになる!」と。
まあ、おかげで私もその言葉に縛られているわけであるが、私は現在いつ死んでもいいとはちっとも思っていないが、まあ死ぬときは死ぬかあという程度である。
特に父が亡くなってからは死というのが現実となり、その過程を見ていたために自分はどうするのかという整理をしなければならないと感じた。
昨年末には長女が結婚したので、今後は私にとって孫ができる可能性が出てきたため、それを楽しみまた育つ過程と、サポートができればと思っているので、そこに楽しみもある。
さらには次女が今後どうなるのかというところと、そのサポートまでは私の責任だと思っているため、彼女を将来の旦那に引き渡すまでは生きていようとは思っている。
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昨日、長女が遊びに来たのでいろいろ話をしたのであるが、やはり若さとは熱量の塊であると感じた。
私に熱量がないということではなく、その熱量の多さに驚くというわけである。
これから夫婦二人で子供をどうやって授かり、育てていくのかというところについて真剣に考えているし、彼女自身のキャリアについても真剣に取り組んでいる。
もちろん旦那とのコミュニケーションもよく取っているようだし、いくつもある課題をどうするかという部分を、マルチタスクでこなしていくのは、もう私はやりたくないというのが本音だと思う。
その意味で、私は自分がやることは「これ」としてライフワークとし、その目標に向かっているためそこにのみ熱量が集中している。
だが、若い世代はマルチでこなすことが必要であるため、その熱量が多くなるのだろうと感じた。
ありがたいことに、我が娘たちは当たり前のことを当たり前と思うように育ってくれたし、世間が平等ではないということを理解して動いてくれている。
だからこそ、「当たり前に」どう生きるかということを考えて、それらを実行するための努力をしてくれているのを、ここだからいうが「目を細めて観ている」状況だ。
こんなことを彼女たちに言うと調子に乗りそうなので、面と向かっては言わないが心の中ではこう思っているというわけだ。
勘違いをしないで育ってくれたこと、彼女たちの母親と離婚したことで余計な迷惑をかけてしまったことなどあるが、それでもきちんと自分の人生に向き合い、母親と私にきちんと向かい合ってくれているのはありがたいことだと思う。
この12年間の彼女たちの生きてきた熱量は、ほんとうに計り知れないものだと思う。
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少子化の世の中となったのは、残念ながら家庭の教育なのだと理解している。
当たり前であった観念でさえ、今では言ってはいけないというようなこととなっていて、なんちゃらの自由なんてのをフェミさんたちが言いっぱなしにしているわけだ。
おかげで国家に対しての負担を国民がしなければならないわけだが、社会保障費や税金があがるのが当たり前になっていくというのに、金を配れだ、減税だ、社会保障費を削れだと好きなことを言っている。
年寄りが多くなり、子供が少ないのであればそれらの負担はどんどん膨らむのが当たり前だというのに、少子化に本気で向かい合っていないのは君たちではないのか。
まあ、だからこそ好き勝手を言って、好きに生きているのだろうが、好きに生きているのだったら負担は多くなることを理解しなければならない。
私はまだ働いているわけで、この状況であれば次の娘たちの世代を助けるためにも、負担増はやむを得ないと思っている。
そのため現在は準委任契約ではなく、派遣契約で仕事をしているわけだが、すさまじい額の所得税と住民税を見てもやむを得ない感じざるを得ない。
稼いでいられるからこそ必要な額だと理解をするわけだ。
さてさて、仕事ができるのはいつまでなのかはわからないが、仕事があるうちはライフワークとあわせて行っていくわけだが、彼女たちとその子供たちの成長をみながら過ごしていくことができればと思う。
その意味で、私には「余生」というものがないのだろうと思う。
そのため、ある程度の熱量をもって人生を進んでいくしかないからこそ、熱量の多さと質を考えるべきなのかもしれない。