日本人がずれているなあと感じたのは、ISILに対してあまりにも無関心なのと、何もしなければ何もされないと思っていること。
遅かれ早かれ彼らは日本人の人質に対して要求をするのは間違いがなかった。
なぜなら「金か他の要求材料になる」からであって、ISILは人質と金もしくは収監者との交換を要求してくる。
安倍総理がイスラエルで声明を発表する前から彼らは誘拐されていたわけで、すでに要求はされていたわけだ。
それに対してテロリズムに屈しない、他国と連携するというのは当たり前の話。
武器を持っての戦闘だけではなく、このように非道な犯罪は当然ながら許すことはできない。
「日本は中東と問題を起こさないからテロの対象にはならない」などと言う人がいるが、それは彼らにとってメリットがないからであって、メリットが発生するのであれば標的にするのは今回ではっきりしたわけだ。
後藤氏らに対しての要求が彼らにとって「メリットになる」と考えたからこそ当初は金で、次は収監者との交換を解放条件としてきた。
少し考えてみればわかるはずなのだが、ISILに憲法第九条などなんの足しにもならない。
平和を望んでいるといいながら、人質を殺害するなどというのは欺瞞でしかなく、武器を用意して相手に攻撃をさせないというのも一つの手である。
これは中立国を見るとわかるのであるが、スイスは国家の水準からすれば軍事大国であるし、国民全てが武器の使用方法を知っていていつでも戦うことができる。
そして中立国で勘違いしてはいけないのが、中立国はどこの味方にもならないという「前提」の元にいるだけのことであって、国家の存亡がかかればどこの支援であろうと「受け入れて戦う」というものだ。
ただ政治的に中立なのであって、それは国家として生き残るために「どちらにも与しない」といっているのであって、平和へのアプローチの違いである。
日本は日本としてのどうアイデンティティーを持つかというのが重要なのであって、平和へのアプローチはさまざまだと考える。
日本の中でさえいわゆる中国が核攻撃のターゲットにされているのだから、日本も核装備をしていわゆる中国にターゲットを向けるべきだという意見もある。
逆に核や武器を持たずに平和を説けば相手は攻撃してこないなんて意見もある。
両者とも「ごくわずか」(特に後者は本当にごくわずか)ではあるが分はあるが、現実的とはいえないものだと考える。
核を持たないことに対しては、今核をどこかの国が使えば、次の瞬間に人類が存亡の危機に立たされるため、その報復が恐いからどこも使用することができない。
だからこそ日本は持たずともいいと思うのだが、作るだけの技術を持っているため他国には「日本は準核保有国である」と思わせて置けばよい。
これは「喧嘩が強いだろう」と予想される人には喧嘩をしかけにくいのと一緒で、恐れさせておくことで相手に手出しさせないのも一つの安全を得る方法である。
その逆に平和を説けばというのは、その部分だけはわからなくはないが、現実世界はそんな甘いものではなく、どこも平和を訴えながら握手をする振りをして左手に武器を構えているのは明らかだ。
私も最終的には世界から争いがなく、国の線などなくなればいいと思っている。
だが、少なくともISILのようなテロリストや、米国やいわゆる中国、ロシアのようなエネルギーと軍事で世界を支配しようとするような国々がある限り、そんなものは望みがないと思っている。
日本が日本であるためには、原点に戻り「肌の色で差別をしない」「欧米の植民地主義に屈しない」という崇高な目標を持った時代に戻り、他国と論を戦わせていくべきではないかと思う。
子供染みた論と感情は不要であって、現実社会の中で何を成すのかが重要なのだと思う。