3月11日が近づいてきました(3)

3月11日が近づいてきました(2)からの続きです。

船橋を過ぎたあたりから車がそろそろとしか動かなくなってしまいました。

すでに時間は18時を越えている状態で、いつもの30分コースなど夢のようです。

津田沼まであとどれくらいかかるかさえ分からないような状況になってきました。

相変わらず電話やメールはたまにしかつながらない状況で、携帯のディスプレイには「混雑しています」と表示されるだけでした。

札幌の実家からは一度連絡が入りましたし、練馬の義父母とも連絡はついていたので、余計な連絡はしないようにと考えていたので、携帯を使わないようにしていました。
(緊急の電話がつながらないのは、こうしたパニック時になるとわかるなあと思った次第です)

船橋から一時間をかけて津田沼の駅の近くまでつきました。

しかしそこからなんと駅前までの1kmあまりが30分かかったのです。

そして家から2時間半ほどでようやく津田沼についたのです。

仕事場に電話をしようとしても「混雑しています」の表示が出ているため、子供を使いに出しました。

そして10分ほどしてから妻の仕事場のメンバーがビルから顔をだしてきたのです。

「お腹すいたねー」ということで、ビルの一階にあったコンビニに入ったのですが、全く主食となるような食べ物はなく、お菓子がいくつか残っていたので、それをみんなで購入して食べようということになりました。

仕事場のメンバーは西船橋と行徳方面ということでしたし、千葉方面の方は変えることが無理なので、西船橋の方の家に泊まることになったそうなので、車は今来た道を戻り始めます。

この時で20時半くらいでしたが、ここから帰宅までの時間がすさまじかったのです・・・

まずは西船橋ということで、津田沼駅の北側を抜けてから14号を目指します。

車は渋滞がずっとつづいている状態で、上りの方がましなの?というくらい動きません。

下り車線の車両は先ほどよりも動いていないような感じで、これから下り方向に帰っていく人たちにとっては、どれほどの時間がかかるのだろうかと感じたほどです。

・・・と言いながらも、じゃあ上りはどうなんだと考えてみても、上り方向も来た時より混雑しているような感じに思ったのは間違いがありません。

14号にでようと思ったのですが、そちら方向は混んでいるのははっきりしていましたし、細い住宅街の入り口の道路から車があふれている状態で、入ることができないので、そのまま船橋までの道をまっすぐ進まざるを得ません。

車の中には飲料がなかったため(車に乗る前に買ったものは三人ですでに飲みつくしていました)、途中まだ売っている自動販売機を見つけると、車から降りて買ってくるような状況でした。

車から離れてもほとんど車は動かないため、十分に買い物ができる時間がありましたが、トイレだけは車が数百メートル進んでいて、走って追いかけてくるということもありました。

車の中は8人いましたのでいろいろと話ができ(私以外は女性です)その後話をしたときには「あの時一人じゃなくて心強かった」と言っていたので、人との会話がどれだけ大切なものなのか感じました。

さて船橋の陸橋を渡るときにたいへんなことが起きます。

時間は22時前になっていたので、すでに二時間近く経っていましたが、歩道を横切って幹線にでようとしたところ、下り方向の人の波で車を進めることができないのです。

聞いてみると仕事を終わらせて、東京駅の近くからひたすら歩いてきた人などがおり、とにかく帰るのだということでまだここから10kmほど歩かなければならないような人とも話をしました。

外は3月とはいえ冷えてきていますし、この時にワンボックスの車を持っていてよかったと思いました。
(おかげで今もサッカーの関係もありますが、ワンボックスにしているのは緊急時に役立つからです。燃費はアレですが^^;)

そしてその陸橋から西船橋までが1時間半近くかかり、20時過ぎに津田沼を出て23時半に西船橋という、普段は15分もあればつくようなルートで、これだけの時間がかかってしまったのです。

途中、船橋競馬場のそばを通った時、地面から水道管が破裂したのか水が噴き出ていたり、谷津のあたりでは停電のため信号機が動かず、また街灯もついていないため、真っ暗な中道路を突っ切ったら左から車が飛び出てくるなどというヒヤッとした瞬間もありましたが、なんとか西船橋で三人を下すことができたのです。

そのあと行徳方向に向かいましたが、こちらも混んでいて着いたのは0時半くらいでしたが、この頃から上り方向の車は「まだ」ましになったと感じました。

家族だけになり、市川の江戸川沿いを走っていると、コンビニエンスストアをみつけました。

子供たちの「お腹へったー」の声もありましたが、私たち大人もお腹がすいていたのでなにかないかと思って入ったところ、その近くの住人の方は大人なのか食料を買いあさることもなく、カップ麺が残っていたのです。
(おにぎりなどは売り切れでした)

お菓子も少し残っていたのでお菓子を少しと、カップ麺を二つ買い車の中で食べ、少しだけお腹を満たして家に向かいました。

そこから鹿骨街道などを通り小岩を抜け、葛飾の自宅に戻ってきたのは2時半となっていました。

余震は続いていたので寝る時に考えたのは以下のことです。
・靴下を履いて寝る
・ベランダの鍵をかけず、ベランダにも靴を出しておく
・テレビは光量を落としてつけたまま寝る(夜中じゅう地震情報が流れていました)
・子供たちと寄り添って寝る(一日不安でしたでしょうから、安心させるためです)

それまで地震があったって、二軒隣が火事だって起きなかった私が、ちょっとした地震で起きるようになっていました。

それは家族を守ろうと思うからで、一番最初に目覚めすぐに動くことができる体制をとるという、180度変わった目覚めを体験しました(苦笑)

それまでの9時間くらい、ものすごく緊張していたはずなので、神経が疲れていましたが家族を守ろうと考えると眠りが浅くなっていたように思います。

こうして長かった一日が終わり、うとうとしたのは4時近くになっていました。

(4)につづく