自分らしさってなに?

いわゆる自分らしさとか、個性とかよく言われるのですが、それってどうしても必要なのか???とついつい考えてしまいます。

他人から見た「その人の個性」というものと、自分の中にある「自分らしさ」というのは乖離していることが多く、よくあるパターンとしては個性がはっきりしていて自覚していたとしても、他人からは認められていない場合があったりします。

また逆に本人は全く自分らしさを主張をしてもおらず自分の中で普通にしていたとしても、他人からは「個性の人」みたいに見られることもよくあるわけです。

ちなみに私は後者であったのですが、30代を過ぎてから自分でもその個性を意識して、そこを伸ばす方向で活動するようにしています。

まあそのため、合うところと合わないところがあったりしますが・・・(苦笑)

今の私を知っている人は信じられないことでしょうが、私は子供のころ主張が苦手でしたし、転校続きで友達は離れていくものだとあきらめていた部分があり、さらにはいじめもあって人を信用しないところがありました。

そのため自分らしさを出しても意味がないと思っていた節があり、目立たないようにしていた「つもり」(本人はそうだったのですから)だったのです。

私の自分らしさは「一見社交的(実は全然違いますが)」「一見オープンで明るい(明るいのは認めますが、意外にドメスティック)」というのが大きく、そこに自らの主張を交えていくわけです。

それが社会活動や仕事の中において他者から評価されるようになり、現在に至っているわけですがこれは本当にありがたいことだと感じているのです。

多くの人は自分の主張をしてみても、Twitterでつぶやく程度のことにしかならないなんてのは往々にしてあるわけです。

たとえ小さなコミュニティ(といっても小P連の時は対象が8万人以上)であっても、自分の言葉が他者に伝わることはありがたいことなのだと思うのです。

そして自分らしさがその場で活躍することができれば、自己欲求を満たすことになる(と知ったのはそうなってからですが)ため、もっと何か役に立つことをしたいとか、社会でこう活躍したいなどということができるようになってくるわけで、それが成功につながるのだと考えます。

ちなみに本気で私は目立つ方ではないと思っていましたが、それが勘違いであるとしったのは二つ目の会社に所属したときであって、実は学生のころには全く考えもしないことでした。

そのため自分は目立たない地味な存在と思っていたため、自分の好きなことしかしていなかったことがあります。

とくに高校の同期の仲間はそういう部分しか見ていなかったため、私が社会人になってから社会活動などを行うことに「あいつが他人のためになにかをするわけがない」という評価をされていました。

しかし、同窓会などで何十年ぶりかで会って、それが全く違う私と出会ったときにありがたいことに感じてもらえることがあるようで、それが今の私にとってはその頃の反省も含んで同期や同窓に対して「何かをしたい」と思う原動力になっています。

君は生き残ることができるか(永井さん風)

そろそろ私の年代もキャリアエンドが見えてきているわけですが、人生100年時代と言われてきていて、残りが30年以上なんて人もでてくるわけです。

しかしながら65歳くらいにはその人の仕事についてのキャリアの最終というのが見えてくるわけで、そう考えると自分にとってはあと10年ほどしかないということになります。

と言ってみても、23歳になる年齢で社会人としてサラリーマンになり、そこから考えれば43年程度となるわけですから、100歳では半分以下、80歳でようやく半分程度やったということになります。

現在の健康年齢で考えてみると80歳ですから、その数字で見てみましょう。

65歳で仕事に区切りをつけ定年を受け入れたとしましょう。

80歳までの残りは15年ということになります。

それまでただ遊んで暮らせる人というのはかなり少なくなってきていると思います。

私たちの親の世代であれば年金であったり、貯蓄などの切り崩しで働かずに食べている人を見ますが、私たちの年代ではそこまでの生活ができる人はごくごく一握りに過ぎないでしょう。

その理由の一つとしては年金額の低額化ということになりますが、社会人人生の1/4しか厚生年金に入っていない私などは、国民年金にちょっとだけ足される程度ですから、それだけで食べていくのはそうとうきついことになります。

ではどうするのかといえば、拙宅では貯蓄だけではなく投資というところにも手を伸ばしています。

しかし、そこで死ぬまでのお金を得たとしても、実は私は働くのだろう・・・それは今のように懸命に結果を残すための仕事ではなく、人生の集大成としてのライフワークを行うのだろうと考えています。

具体的にはサッカースクールやクラブ運営などですし、お金にはあまりならなくとも東京都や区のレフェリーインストラクターの微々たる収入もあります。

まあ、インストラクターは有償ボランティアでしかありませんが、趣味でお金をもらえることほどいいことはありませんから、それはそれでよしとしましょう。

・・・と、少し話題がそれましたが、私たちの世代が生き残っていくためには、年金だけではなく(年金も支給年齢が上がるでしょうし)、必ずそれ以外にお金を得られる手段を用意しておく必要があります。

先日、転職についてのご説明をうけた企業がありましたが、そちらは401kにも対応されているようで、今私のやっているものを引き継ぐことも当然できますと言っていただきました。

こういうところでも知っている人と知らない人では差が出てきます。

生き残るために、何が有用であるのかを判断し、自分や家族が永らえるための準備をきちんとしておかなくてはならないでしょう。

35歳定年説はもはや過去のもの

週刊SPA!ってのは悲観的な記事が多く、今週号についても50歳の悲哀的なものをやっていました。

しかしながら、それはついていないというよりは自業自得な方々の例を出していると思っているのですが、まだまだ上向きの50代は少なくとも私の周りにはきちんと存在しています。

ちらっと雑誌を見ると年俸が300-500万円で将来がってのをみましたが、少なくとも生活設計をきちんとしている方は、55歳を過ぎで年俸が減ったとしても、その後のプランニングができているため問題がなく生活ができています。

先日、あの人差し指を立てるCMでおなじみの、人材紹介&正社員紹介サービスの会社のことを聞きました。

今の年収が最低限として50代で外資系のマネージャもしくはシニア・マネージャとしてのお誘いが、少なくとも知っている方の複数にオファーが届いていました。

それまでのキャリアの集大成となる可能性もあり、最後の転職にいいかもしれないと検討している人もいらっしゃいます。

もしろん、そのサイトに箸にも棒にも掛からぬ方がいらっしゃるのは重々承知ですが、それまでのキャリアをきちんと形成している方には問題なく次のキャリアへのお誘いが届いているわけです。

しかし、某大手の同じサービスの方には、その人のキャリアに関係なく、年俸200-300万円の仕事のオファーが届くそうで、なにを考えているんだか?と既に退会している人も多くみられるようです。

その方のキャリアをきちんと判断できなければ、少なくともなんのメリットもないようなオファーが届くわけで、そのサービスは本当に人を見ていないのだなと判断できます。

しかしながら人差し指を立てるサイトは、オファーが届かない場合も往々にしてあるようですが、キャリアを積んだ方であればきちんとオファーが届いているので信用ができそうだと噂になっています。

はたして・・・私も50代中盤でフリーコンサルタント・エンジニアですから、どうするべきかを考えながら今後も生きていかなければなりません。

さて、どうなりますやら・・・

議論をするということ

異なる意見の人と議論をするということは良いことだと思っています。

ただし、質の良い議論をしたいというのが当たり前のことになりますので、以下の点に注意しています。

  • 言葉遣い
  • 調査(リサーチ)
  • 裏付け(コラテラル)
  • 証憑(エビデンス)

言葉遣いは社会人として当たり前のことで、最初から「おまえ」だの「あんた」だのという言葉を使えば、相手は当然ながら話す気さえ失せてしまうことがあります。

ちなみに私はこうした人が大嫌いでして、これを書かれるとかなり冷たいあしらいになります。

せっかくまともな議論をしている人に対して「おまえさー」などとやられたら、とてもではありませんが萎えます(笑)

そのため自分ではそうしないように気を付けていますが、しつこい人などに対しては「おまえが馬鹿なのはわかった」などと突き放します。

それから自分が反対する政治家や人物について呼び捨てにする、カタカナ表記にするなどの人はやはり冷たいあしらいになります。

私は例え嫌いな政治家であれ「一応」「氏」とか「さん」とつけるようにしています。

まして一国の宰相(さらに言えば日本国の首相)を呼び捨てなど言語道断だと思っていますので、議論の際には言葉遣いをきちんとするべきだと考えています。

調査ですが、議論をするための最低限の知識というのが求められるはずなのですが、最近のTwitter民の中には「教えろ」とくる人がいます。

まずそうきた場合には、私の中で「無知」というフラグが立ちますので、ほとんどが冷たいあしらいになります。

はっきり「パヨク」と書きますが、彼らには道理であったり常識が通用しません。

彼らは常に自分が正しく、社会正義に満ち溢れ、人のことを考えており、賢いと勘違いをしています。

ディベートの基本は自分の意見が正しいというところからスタートするものですが、それが正しいのかを実生活の中では振り返る必要があります。

しかしながら、彼らは自分が正しいですから相手の意見を崩すことしか考えていません。

もう一点、幼稚です。

「〇〇とはいつ言ったか?」など文脈を無視してわめき始めることがあります。

それなのに相手に対しては「おまえはこう言っただろう」と勝手に相手の考えを決めつけてしまうことが多々あります。

ステレオタイプという言葉がありますが、大多数のこうした人々に見事なまでにあてはまるため、最初から決めつけはしませんが、途中で「パヨク」フラグが立つのは普通のことになってしまいました。

さて、話す内容の調査ができて方向が決まったからといって、そこですぐに感情に任せて発言をしてはいけません。

裏付け作業が必要になります。

そのためには証憑(エビデンス)が必要であり、法律であったり、発言であったり、それぞれの議論に対して必要な情報を集め、話の方向に対しての裏付け作業が必要になります。

Twitterでよく見る正しい人は、きちんとエビデンスをつけて「いついつこういう発言があったがどういうことか」と質問をします。

それは当然ながらわかりやすいものですから、相手に対して証拠能力を持った問いかけということになります。

で、パヨクの皆さんというのはそこらへんをすべて吹っ飛ばします。

法律の成り立ちを無視し、物事の順序を無視し、社会規範を無視しても自分の「想い」が通ると思っています。

そのため当然ながら裏付けも、それにかかる証憑もでてこない状態で、ただただ「想いの話をする」(議論ではない)のみとなるため、議論にならなくなってしまうのです。

先日も消費増税について、そもそも民主党政権時に成立をさせ、金融庁が書いた図に従っているというのに、消費増税をしないためにアベなら強行採決をしてなんとでもなるなどという、「とんでも」な発言をする人がつっかかってきました。

スタートが金融庁の法律に対して、その法律の廃止案を金融庁がそうやすやすと書くものではありません。

政治家はこうしたところを官僚に頼らざるを得ないため、決めた法律を廃止するためには相当な努力が必要となります。

しかしながら消費増税については、過去二回の延長があるため、金融庁が納得して廃止案を書くなどとは考えにくいのは当然のことなのですが「できないことはない」と想いだけで綴ってくるわけです。

頭の中では「アホか」と浮かんできて(しかも法律施行について教えろときて、後出しで難しいといいはじめる)議論は無理と断りましたが、その後「知らないのか」などとリプライしてきましたが、完全無視しました。

それらの理由は上にすべて書いてありますが、議論に値しないからです。

例え反対意見であっても、正しいものをぶつけ合うのであれば議論として成り立ちます。

それができないから議論できないと打ち切らざるを得ないという残念な結果となるわけです。

きちんとした議論をしたいものです。

政治こそ一番身近なものです

たまに政治のことを政治など考えたことがないという方と話すときによく言われるのは・・・

  • 政治家が変わっても政治は変わらない
  • 政権が変わっても自分には関係がない
  • 政権が変わっても日本は変わらない
  • 自分には関係がない

というものです。

それは全く違うのですが、諭すように話してみても全く取り付く島もないことが多々あります。

それでも政治は身近なものなのだと、ブログでちらっと書いてみようかななどと思っているわけです。

直近で日本にて政権交代が起こったのは2009年のことです。
少なくとも私にとっては悪夢の三年間だと考えていますが、そう思わない不思議な方がいらっしゃるので「少なくとも」とつけてみました。

あの三年間で円高が続き、経済は混迷し、政治空白が叫ばれ、消費税10%が決められたのです。
いわゆる311後には絶対に無理だと言われた再生エネルギー法を試行し、買取が高額で続くわけのない電気の買取を義務付けました。

それらのつけが現在の自民党政権に現れているのが事実ですが、自由民主党から民主党へ政権が移行したことで、これだけ日本が変化しているのです。

それでも政権が変わっても日本は変わらないのでしょうか。

民主党政権を受け入れたのは当時の国民意識が「自民党ではだめだ」となったからだと思われます。

今でも私は自由民主党が一番優れているとは思っていません。
むしろもっと野党の中にまともなものができてくれないのかと思っており、民主党ができたときに少しは期待をしたものですし、維新が盛り上がってきたころに少しは期待をしたものです。

しかしながら彼らは自分で自分の首を絞めるような行為ばかりを繰り返しましたし、維新は別として民主党は自由民主党に対して反対意見を述べるだけの党というイメージになってしまいました。

今でもまともな野党を作るため。作ってもらうためいろいろな会合に出かけたりすることはありますが、少なくとも自民党を全否定する人たちの意見はあまりに建設的ではないため、そういうところに足を運ぶことはなくなりましたし、日本共産党から応援されるような人は絶対に応援をしません。

日本共産党に対しての理由は単純で、あれだけ安倍政権に対して長すぎる・飽きたなどと言っている政党が18年間も無投票で代表が変わらない状況ですし、なにより戦前よりの活動に対しての総括も反省もない政党を認めることなどできようはずもありません。
しかしながら日本は60年代70年代の安保闘争で一定数の共産党支持者や共産趣味者を生み出し、いまだに支持をしている現状があります。
これは恥ずべき事態だと考えています。

言論の多様性は認めますので、共産主義を論じるのは結構だと思いますが、旧ソビエトと中国共産党の状況を考えるに、共産主義は夢であったと言わざるを得ないと少なくとも私はそう考えております。

私は地域の政治家と積極的に話をするようにしています。

それは国会議員も含まれるわけですが、幸いなことに地元の平沢勝栄代議士は会話のできる方ですし、きちんと事務所で秘書の方を通せば必要な場合には話をすることは間違いなく可能です。

当たり前のことですが、私たち日本国民は選挙権があり、彼らを選ぶ立場にあるのですから、その話を聞かない政治家など選ぶはずもありません。

貴重な意見をもらえるとなれば、秘書から代議士に伝わり「では会ってみましょう」ということになります。

もちろん、そこの木がどうしただの、下水管が詰まるだなどと役所で済むようなことを事務所に言っても相手にしてくれませんので、その程度で話をしてくれないなどと怒るのは全く論じるところが違うことになります。

そうそう、地元のことだけを相談するのであれば、市町村区議会議員が話をきいてくれると思います。

現在、経済が上向いているのは間違いがなく、少なくとも私の周りの業界では単価が上がっていたり、人が足りないということをよく聞きます。
それだけ仕事が生まれているということは上向いていると考えられ、日本が良い状況になっているのだと感じています。

もっと良くするには政治をよくすることも必要となります。

つまりは身近にある政治、政治家を使わない手はないわけです。

自分の環境をよくすることを考えるのであれば、一度きちんとかつ冷静に考えるべきです。